☆栃木県高校 (中等) 野球の歩み より ~小山高校~

 

昭和43年第50回記念大会。小山、小林監督の野球が頂点を極め、悲願の甲子園初出場を遂げた。春の県大会を制し、春季関東大会でも準優勝の小山は、好投手鈴木を擁して県大会決勝まで進出した。

昭和43年、春季大会に初優勝したあと小林監督はひとり悩んでいた。選手達にあせりと不安が覆いかぶさり、悲願の甲子園というプレッシャーに押しつぶされそうな気配を感じとったためだ。未知の実現には常につきまとう、そこを越えなければ解消されない重圧がある。何度決勝まで進んでも最後の勝利を掴まなければ得られない自信。それが小山の悩みだった。
小林監督は常光寺の宇井住職の門を叩いた。宇井住職の教えは「克己、平常心是道」であった。
普段通りやればいい。この教えが監督を、選手達を、勇気づけた。作新学院が黒羽・雲願寺の門を叩き、輝かしい栄光を手にした話も有名だが、勝利を目指す者にとって心のコンディショニングがいかに重要かを物語るエピソードだ。


昭和43年、第50回記念栃木大会決勝は小山-作新学院の間で争われた。試合は初回、作新学院の名ショート江俣のエラーから始まった。小山の気迫の攻撃でこのチャンスに一挙4点を奪い、鈴木投手の力量から見ても勝利は大きく小山に傾いた。昭和48年までは木製バットの時代でもあり、投手力絶対の時代だった。
結局、その後は両チーム1点ずつ奪い合う互角の展開だったが、5 - 1 で小山が初めての甲子園を決めた。
歓喜する小山ナイン、うなだれる作新ナイン。いつの決勝でも同じような光景が見る者の胸を打つ。しかし、学校・OB・市民一体となって強化した小山、そして何より指導者陣の強固な意志と、選手たちの努力があったため、この感動の場面が生まれた。
全国大会では初出場の緊張にも関わらず、高松商と互角の勝負の末 1 - 2 とサヨナラで敗れた。しかし、この時から小山は関東の強豪として本県高校野球をリードしていくのである。

 

3年後の昭和46年、小山は県の代表校となり北関東大会に臨んだ。しかし高崎商と 1 - 1 の接戦の末、9回二死から1塁ベースに当たる不運な決勝打で敗れ去った。

 

翌昭和47年、代表決定戦で9回まで小山は無安打に封じられていた。相手は江川投手を擁する作新学院。
この大会江川投手はまだ安打を1本も打たれていない。シードで2回戦から登板した江川はノーヒットノーラン、完全試合、ノーヒットノーランの快投で代表決定戦に臨んだ。しかし小山・荒川投手も作新打線を5安打無失点に封じ、延長10回に突入。延長10回鈴木が初安打を江川から放ち、11回金久保・中川の連打のあと田村が決勝サヨナラスクイズを決め、北関東大会に進出した。
北関東大会では高崎商を破り、足利工との同県決勝。またも延長11回、足利工石田が三塁線を破ると1塁から阿部が一挙生還。無情な逆転サヨナラ負けであった。

 

昭和49年秋季関東大会、翌昭和50年の秋季関東大会と関東大会に2連覇した小山は、2年連続で選抜大会に出た。昭和50年の第47回選抜大会に出場した小山は天理に 4 - 6 で敗れ、全国大会での勝利をつかめなかった。

翌昭和51年の第48回選抜大会に出場した小山は初見投手の力投と黒田を中心とした強力打線で岡山東商を 3 - 2、土佐を 4 - 3、準決勝では東洋大姫路を 1 - 0 といずれも1点差で連破し、選抜大会の決勝に駒を進めた。決勝の相手は崇徳。崇徳のチーム力はけた外れで 0 - 5 と完敗。しかし栃木県久々の全国大会での上位進出で、県民は小山の活躍に驚喜した。あるいはその快進撃に驚きさえ覚えた。
しかし、2年連続の秋季関東大会優勝で実証されたように、灼熱の太陽の下、夏場の激しい練習に裏打ちされた実力と指導者の冷静な深い読みがこの快挙を支えていた。

 

迎えた昭和51年の第58回大会。小山は春季関東大会では準々決勝で川口工に 0 - 8 と苦杯をなめていたが、県大会では足利を 6 - 0、烏山を 11 - 1、栃木を 12 - 2 と圧倒的な試合を展開。準決勝黒磯には 9 - 6 と苦しんだが決勝進出。決勝では足利学園を黒田が完封、4 - 0 と4度目の甲子園に勝ち進んだ。甲子園でも京都商を 2 - 0、原・津末の東海大相模打線を 1 - 0 と破り、快進撃。だが赤嶺投手を擁する沖縄・豊見城に 1 - 2 と敗れ、惜しくも上位進出はならなかった。
こうして、「克己、平常心是道」の小山野球の活躍は多くのファンを生んだ。

 

平成6年第76回選手権栃木大会で小山は18年ぶりに甲子園に駒を進めた。伝統の強力打線と堅守で久々の優勝。甲子園では勝利は挙げられなかったが、小山の活躍に古豪復活の希望を託した多くの人々は久しぶりの興奮を味わった。
小山の「平常心」野球はこれからも形を変え、再び栄冠を求めて理想的なチ-ム作りが続けられていくだろう。多くのファンに支えられながら。

 

 

 

 

 

栃木県立小山高校は、栃木県南部に位置し県内2位の人口を誇る小山市に所在し、1918年(大正7年)に小山町立小山農商補習學校として創設された歴史を有する。

野球部は1935年(昭和10年)頃に創部された。野球部の主なOBは、広澤克実、飯原誉士である。
夏の全国大会予選には、1938年(昭和13年)の第24回大会予選(北関東大会)に初参加した。結果は、県宇都宮商に 0 - 9 で敗退となった。
夏の全国大会予選初勝利は、1940年(昭和15年)の第26回大会予選(北関東大会)で、下野中(作新学院)に 7 - 3 で勝利した。
夏の全国大会予選通算成績は、145勝77敗1分である。
甲子園には、春2回、夏4回出場、通算成績は5勝6敗、最高成績は春の準優勝である。

 

 

小山高校の古豪復活に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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