違った角度からわかりやすく大阪の皆勤校(パクリ)

  • 仲本
    2012年04月23日 22:28 visibility175

(画像はわかりにくい[e330])
「おーい、魚谷」
ここは昭和2年のJOBK(現在のNHK大阪放送局)。呼ばれた魚谷忠はまだ入社間もない駆け出し社員である。

(…なんやろか)

「お前、確か学生の頃野球しとったな?」
「ええ、まあ…」
「隠さんでもええ、みんな知ってるこっちゃ。中学校で全国大会にも出たそうやないか。そこでや。お前に仕事やる」
「???」
「今度の夏の中等学校野球大会、うちで放送することになった。お前、球場のゲームの様子がわかるようにラジオで喋れ。ほな頼んだで」
「…」

…というやりとりがあったかどうかは定かではないが、ともかく昭和2年の夏の甲子園大会が日本のスポーツ実況放送のはじまりだ。マイクの前に座った魚谷氏、全国大会に出たというのは本当の話。大正5年に行われた夏の第2回大会で、大阪から初めての代表となった市岡中学は準優勝に輝いた。その時の三塁手だ。

当時は今のような完全中継ではなく、通常の番組の合間を縫って細切れで中継されていたという。しかし誰もやったことがない野球実況というものに代役がいるはずもなく「3日目ごろから声が枯れてきた」。吸入器やのどに塗る薬の差し入れで大会期間8日間全21試合をなんとか乗り切った。野球で鍛えた体力の賜物というべきか。

この年は開幕試合の札幌一中と青森師範の試合がいきなり延長12回。大阪からは魚谷氏の母校・市岡中学ではなく北野中学が初めて全国大会に出場した。大会中には三重殺やノーヒットノーランも記録された。果たして当時の実況はどのように伝えたか。さすがに録音など残っていないだろうが。実況スタイルはいろいろと考えた末、「中学生でもわかるように話そう」ということに落ち着いたのだとか。
















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