消えた野球部〜第一回予選出場校・京都美工
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仲本
2014年09月20日 21:26 visibility873
(京都・鴨川)
昔の中等学校野球のことを調べていると、今ではあまり聞かなくなった校名を見つけることがある。
京都市立美術工芸学校は、1880(明治13)年に日本で初めて作られた画学校で、その後、1901(明治34)年には絵画・図案・彫刻・描金の4つの学科を持つに至った。
およそ野球とは縁のなさそうな学校が、どういうわけか1915(大正4)年、第一回の夏の中等学校野球大会の予選に参加している。京都では以前から旧制三高が対抗戦を主催したりして野球の普及に一役買っていた。
京都美工は初戦の京都一商戦に2−13の大敗を喫する。それ以後、「京都美工」として夏の予選に参加した記録は残っていない。
京都市の図書館で郷土資料をあたってみると、学校の記念誌に1929年(昭和4)の生徒活動の資料があった。課外活動に卓球、蹴球、籠球はあっても、すでに野球はないようだ。
戦後の教育改革で、伝統ある京都美工は新設された日吉ヶ丘高校の美術工芸課程として再出発する。普通課程と併設の学校で、この手の総合制高校がGHQの指導によって全国にできた。
さらに1980年(昭和55)、美術工芸科は分離独立。京都市役所にも近い鴨川のほとりに移転してきた。ここはもともと中学校だったが、都心部の人口減少による統廃合で校舎が空いたのだった。
現在は京都市立銅駝(どうだ)美術工芸高校という。
銅駝とはまた難しいが、中国唐の都・長安にあったという銅製のラクダの像に由来する(「駝」はラクダの「ダ」)。平安京が長安をモデルに作られたとき、地名もそのまま借りてきたということだ。
美術高校の移転にあたってつけた条件が「由緒ある銅駝の名を残すこと」。高校も美術系では日本で最も創立が早かったはずだが、なんとも京都らしい話ではある。
校庭は都会の真ん中の学校のためずいぶん狭い。この学校にやってくる生徒はスポーツ以外のところでそれぞれ表現の手段を持っているのだから、それはそれでかまわないのだろう。
美術系の単科学校で生徒の数自体も一学年90人と少ない。そんなわけで、現在、野球部は存在しない。
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