第1章チーム勃発 その2府中水元クラブと藤井健太

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    2024年08月03日 09:56 visibility165

さっそく、第2回の連載です。

 

 

第1章 チーム勃発

その2 府中水元クラブと藤井健太

 

第1回全日本選手権大会にいちはやく反応したのは、府中市を活動拠点とする中村恭平(のちに府中アスレティックFC監督、ゼネラルマネージャー)が率いるフェニックス、松村栄寿(のちにファイルフォックス監督、コーチ)が率いるエルマーズなどの「サロンフットボール」(フットサルの別の呼び名)のグループであった。

というのも、府中市は、東芝、日本電気など日系ブラジル人が働く工場が比較的多く、日本人も含めてサッカーと同時にサロンフットボールが盛んに行われていたからである。多くのチームはサッカーもやればサロンフットボールも楽しんでいて、チームの掛け持ちが多かった。しかし、公式の大会参加となると正式なチーム登録が必要になり、そこでサッカーの東京都社会人リーグ所属の府中水元クラブ(大会参加名は「水元クラブ」)で出場ということになった。陣容は、監督は松村、選手は鞁島三郎や、中村恭平の弟の文俊、俊仁(両者はのちに府中アスレティックFC)、またエルマーズからミスターフットサルといわれ、ヴェルディ川崎ジュニアユースでプレーした経験をもつ上村信之介(のちにファイルフォックス、フトゥーロ)らを擁して大会に臨んだ。サッカー一辺倒ではない基礎があったので、予選をクリアし、決勝大会に進むことができた。

ちなみに前述した中村三兄弟に2人を加えた中村五兄弟は、フットサルの名手として有名な家族で、府中水元クラブとは別に彼らを中心にした「踊るファミリーズ」というチームで民間大会に出場、好成績を収めていた。のちにJFAは「ファミリーフットサル」という普及活動を展開することになるが、その先駆けであった。

明けて1996年1月、ついに第1回全日本選手権が開催された。場所は有明コロシアムで、以降、第4回までは同会場で開催された。現在、その地で公式戦が行われることはないが、オールドファンにとっては懐かしいフットサルのメッカ的存在であろう。

初参加ながら関東代表として決勝大会に進んだ府中水元クラブであったが、まだまだサッカーが強い時代で、予選でNTT九州サッカー部に敗退してしまった。NTT九州といえばJ2のロアッソ熊本の源流となる強豪サッカーチームである。また、優勝したチームも、体育系専門学校のサッカー専攻学生のチームで、ルネス学園甲賀サッカークラブだった。また、府中水元クラブを破ったNTT九州サッカー部は3位に入っている。ちなみに、優勝したチームの学生には、のちにアスパ、バルドラール浦安、ペスカドーラ町田などで活躍した藤井健太がいた。

藤井健太は、関西出身ながらどうしてもフットサルの技術を極めたいと関東に移住、ついには日本代表キャプテンまで上り詰めた選手である。だいぶあとになるが第20回全日本選手権(当時の愛称は「PUMAカップ」)でも町田の主力選手として出場、3位に輝いた。20年間、第一線で活躍するその健在ぶりには頭が下がる。

お宝写真は、第3回の優勝の表彰式の写真であるが、あどけなさが残る貴重な写真である。

第1回全日本選手権が終了してほどなく、前述した第3回世界選手権のアジア予選が上海で開催された。アジア予選は始めてのことである。その日本代表には全日本選手権で活躍した藤井、上村が選ばれている。成績は予選敗退となったが、翌年開催される第1回アジアフットサル選手権(以下、アジア選手権と称す)の試験的大会の位置付けにもなり、のちにつながる貴重な経験を積むことができた。

全日本選手権、世界選手権のアジア予選と日の当たる大会が続くなか、のちにフットサル界に大きく影響をおよぼす1人の選手がフットサルに関わり始めた。

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