失ったもの、得たもの。

2006.12.22〜23
いつものように昼過ぎまで睡眠。
彼女とあちらこちらに車で買い物に出かける。
いつもと違って変な車は多いし
人が飛び出してきたり。
買い物中も変なヤツがぶつかってきたり…
極めつけは横から車が飛び出してきて突っ込まれそうになる。
凄く嫌な一日だった。
夜から数人で忘年会。
朝まで騒いで寝ようかと思ったところ
彼女のマンションの下の階の住人の目覚ましがなった。
(オーディオでウーハーガンガン)
いつもなら数秒で止まるのですが
全く鳴り止む気配もなし。
下の部屋に行ってチャイムを鳴らしたり
ドアを叩いてみるも反応無し…
どうやら留守の様子。
怒りとともに大家の所に言って苦情を言い
部屋に戻ってくると母親と弟から着信が…

何か無ければまずこんなに着信があることが無いので
心配になってかけてみると


親父が…


もうダメだとのこと…


前の日からの嫌な予感…
それに寝てしまったら気付かなかったであろう着信。
なんだか全て理解できた気がした。

嫌な出来事の終着点はコレだったのかと。
たまたま下の階の人の目覚ましが止まらなかったのも
この為だったんだ…と。



俺は生まれも育ちも埼玉。
市内での引越しはあるもののずっと埼玉人。

3年前(4年前)親父の引退を期に
両親は静岡県の伊東で隠居生活を始めた。
田舎というものが存在しなかったので
帰省の際はなんか嬉しかった。

ただその生活も2年半で終わりを告げた。



とりあえず弟が既に伊東に向ったと言う事で
俺は祖母の所に行き、母親の兄も交えて
わかる限りの話をして後から伊東に向う事に。


11月に祖父の13回忌があり久しぶりに
埼玉で家族4人揃っての食事をして
たったの1ヶ月…
何がなんだかわからないまま親父は居なくなった。

いたって元気で、何も悪い所も無かったはずだった。

それでも現実には居なくなったのだ。

聞いた話では前日も伊東よさこい祭に2人で行き
新しく買う予定だった車の試乗等もしていたらしい。
異変はその日の晩に親父が風呂に入ったときだった。
普段から我慢強く痛みを口にしない人が
胸が痛い…背中が痛いからさすってくれと
母親に言った…
救急車を呼ぶかと聞いてももうちょっとさすっててと…
とにかくおおごとにするのが嫌いな人で
何事も平穏に済ます事を好む親父らしい言葉。

ただ、どうにも痛みが収まらないので
母親の運転で伊東市民病院へ。
レントゲンの結果、若干血管肥大が見られるものの…
亀裂などは無くこのまま様子見するしかないと。

入院の準備をする為に明け方4時過ぎに一旦家に戻り
翌朝9時ごろまた病院いく予定になった。


伊東というか伊豆半島自体、医療過疎の問題が深刻なところで
大きな病院が無い。

この時大きな病院があれば…
多分緊急手術だったのだろうけど…
心臓と言う事で山道を越えなければ隣の市へは行けず
ヘリでの輸送ももちろんできない。
(気圧の変化の関係)
ただコレも運命…
親父は生前よく不幸な死が訪れた人をニュースなどで見ると
「可哀想だけどこういう運命だったのだから…」
と口にしていた…
なので本人は遣り残した事はあるかもしれないけど
やはり運命だと思ったのだろう。


病院に運ばれて最初の朝に容態が急変し
そのまま帰らぬ人となった。


話を美化する訳ではないが
病院からの電話も母親が家をでて
車の運転中だったため家の電話にも
携帯にも気付かず慌てる事なく病院へ向った。
これがもし家で連絡を受けていたら…
車の運転も危なかったかもしれない。

最期まで優しさに溢れた人だ…
入院が長引いて家族に負担をかける事もなく…

死因は大動脈硬化症による解離性大動脈瘤破裂
そして心タンポナーデ。
医療ミスの可能性もあるような死因ではあるけど
前述の通り医療過疎で設備が整っている訳ではないので
どうしようもなかったのだろう。
(心臓外科はこの病院にはないので)


伊東に到着してみると
凄く穏やかな顔で寝ている親父が居た。
もちろん息をしていないので寝ているわけではないのだけど…

ここからは当然ながら大忙し。
ただ幸いにも俺も弟も年明けまで実家に居られる状況。
不思議な話。
何から何までタイミングが良すぎ…こういうものなのかな。

本当ならこの年の正月に初めて家族4人が伊東の家に
揃うはずだった…それももう叶う事のない話。

もっともっと色んな話を聞かせて欲しかった。
もっともっと色んな事を聞きたかった。
こういう時にどうすればいいのか1番頼りになるのは
親父だったのに…

驚く事に5年手帳に日記をつけていた親父は
当日もしっかり日記が書いてあった。
本当に異変が突然に訪れた事がよくわかる…
もちろん3年目半ばで終わってしまっているけど…

ありがとう。

本当にありがとう。

ここまで育ててくれて。
あなたの子に生まれて本当に幸せだったと思います。

ただ心残りがたくさんあり過ぎて…
一つだけ大きな嘘をついたまま…
還暦のお祝いも…
孫も…
何も…できなかった…
死ぬまでずっと心配かけつづけてごめんなさい。


1年が経って親の最後の教えが死であると
凄くよくわかりました。
できることならもっともっと後に教わりたかった。



LaBOLAで日記を書き始めたのも49日にあわせての
帰省で暇だったから。
コレが無ければSNS嫌いの俺は日記を書く事は
無かったと思う。
LaBOLAを通じてサルをやるようになったり
色々な人に出会ったのも
全て親父のおかげ。


出会った全ての人に感謝。





親父、ありがとう。

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