消えた球場(33) 武蔵野球場(三鷹球場)

  • Mr.black
    2014年11月21日 10:14 visibility12950

JR中央本線「三鷹駅」の北側約2km、徒歩30分程度の場所にかつて巨大なプロ野球場がありました。

 

正式名は「東京スタヂアム」。通称「武蔵野グリーンパーク野球場」。

プロ野球開催を想定して収容5万人を超える規模で建設された野球場でした。

 

建設されたのは1951年(昭和26年)。当時の野球界を取り巻く状況がこの球場の建設を必要としていたからです。

この当時神宮球場が進駐軍(米軍)に接収されており、プロ野球開催球場が東京には後楽園しかなく、日程消化が困難になっていました。それを解消する為に郊外のこの土地に新球場が建設されました。

 

球場は上述のように三鷹駅から少々離れているので、同駅から球場まで専用の支線が敷設されました。それは「武蔵野競技場線」と呼ばれていたそうです。(運営は国鉄)

 

プロ野球、そして大学野球が華々しく開催された巨大球場「武蔵野グリーンパーク野球場」。

しかし僅かな間にこの球場を取り巻く環境は大きく変わりました。

 

神宮球場の接収が解除され、使用許可が下りたことです。(1952年)

 

現代の交通状況では都心から三鷹まではさほどの距離には感じません。しかし当時の交通事情や庶民感覚では「かなり遠い不便な場所」だったようです。

都心に後楽園・神宮がある状況で郊外の不便な場所「武蔵野」までわざわざ足を運ぶ観客は少ないだろうし、それならばこの地で興行する意味も無い、ということになり「武蔵野グリーンパーク」の価値は一気に落ちてしまいました。

 

それに加えて球場の土が水はけの悪いローム層だった為、芝生がうまく定着せず、風が吹けば砂埃がひどく、プレー及び観戦する環境が芳しくなかったことも災いしました。

 

球場専用の支線を作るなど積極的に介入していた国鉄(スワローズ)が本拠地にするという噂はあったもののそれも立ち消え。

結局たった一年しか稼働せず、そのまま顧みられることがなく閉鎖されてしまった「武蔵野グリーンパーク野球場」。解体されたのは1956年。実質5年少々で消えてしまいました。

 

更に悲劇だったのは球場名そのものが定着しなかったこと。

正式名は既述の通り「東京スタヂアム」。愛称が「武蔵野グリーンパーク野球場」です。

しかし新聞の活字組みの都合で長すぎる名称は毛嫌いされました。

そこで「武蔵野球場」と呼ばれました。ところがこの名称は何故かパ・リーグのみの呼称で、セ・リーグでは「三鷹球場」という名前で呼ばれていました。

(以前、この球場でのセ・リーグ公式戦開催の古い資料で「三鷹球場」と表記されていたのを見た記憶がかすかにあります。)

当時セ・パの仲は悪かったので名称の統一もされず、結局「名前すら定着しないまま放置された」というあまりにもひどい扱いを受けて消えてしまった悲劇の球場です。

 

球場が閉鎖解体された後、この場所には団地が建設されていきました。

 

 

それが武蔵野緑町パークタウン。「緑町」という地名はかつての「グリーンパーク」から来ていることは明白ですね。

 

 

 

団地周辺の道路は下の緑で印したようにカーブを描いている場所があります。

この地形がかつてこの場所が野球場だったことを示しています。

 

 

 

 

 

なにぶん住宅地なので部外者があまりうろつくわけにもいきません。(不審者過ぎる。大汗)

なので少し徘徊した程度ですが、その限りではここが球場であったことを示す物は特に見当たりませんでした。

 

その一方、球場へのアクセスとして敷設された「武蔵野競技場線」はその後どうなったのでしょうか?

 

この支線も球場と運命を共にし、実質稼働は一年。翌年からは休止され、1959年に廃線となりました。

 

 

写真の赤線部分がかつての支線になります。(そして白丸が球場のあった場所)

現在、線路跡は緑地や歩道として整備されています。

 

今回その歩道を駅から団地まで辿って行きました。

 

 

三鷹駅から線路沿いに西へ歩くと途中からゆるいカーブを描いている部分があります。おそらくここで線路が分岐し、進路を北へ変えて球場へ延びていたのでしょう。

 

 

ここが歩道の出発点。

 

 

 

北へ方向を変えて真っ直ぐ伸びています。(途中多少曲折しています)

 

 

 

 

 

途中の人道橋にかつての線路が残されています。この支線は単線だったということです。

 

 

 

 

↑ 道中にはこの鉄道に関する説明板がありました。

元々は「武蔵境駅」(三鷹駅の西隣の駅)から浄水場へのアクセスとして敷設。

その後、戦闘機などを作る中島飛行機工場まで延伸されました。

空襲で破損した線路を補修及び一部位置替えして転用したのが「武蔵野競技場線」だったわけですね。

(この中島飛行機工場跡地の一角に球場が作られたわけです。)

 

 

この地はそのように戦闘機工場があったので米軍から再三空襲の標的にされました。

その為、沿線には高射砲陣地があったそうです。上の写真はその跡地と説明板。

戦争の爪痕が残る地域に戦後「敵国スポーツ」の野球場が建設されたというのは皮肉な歴史ですね。

 

 

この銀杏並木のもう少し先の建物周辺に「武蔵野競技場前駅」があったと言われています。

 

 

時代の波に翻弄されて消滅した「武蔵野グリーンパーク野球場」。日本にはこのように時流に流され短命に終わった野球場が他にもあります。

色々活動しましたが、それら全てを回り切ることは私には出来ませんでした。

でも「球場跡地」に行った時、心はいつもそれらの球場へも向けています。

 

次回は球場が持つ「光と影」について。

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