沖縄放浪記(終)〜球場前のモニュメント

  • 仲本
    2015年07月31日 23:07 visibility357

再び奥武山球場です。

モノレールの駅から球場へと向かう公園内の芝生にこんなモニュメントが立っています。









県知事の顕彰碑?

こういうのは普通、県庁のそばに立っているもんなんじゃないの。



合掌したような形の石の上に金属の球体。周囲4面にもわたって説明文が設けられています。



第27代沖縄県知事・島田叡(あきら)氏。近年テレビドラマの題材になったので、ご記憶の方もいるかもしれません。昭和20年1月に沖縄県知事として赴任し、以後、住民疎開や食糧確保など戦時行政に尽力しました。当時の県知事は選挙で選ばれるのではなく、役人が異動発令をうけて就く職位でした。
内示が出た時点で断ることもできなくはないのですが。


沖縄上陸作戦が始まった3月下旬以降は地下壕を点々と移動しながら執務を行い、沖縄戦が終結する昭和20年6月、消息を絶ちます。自決して亡くなったという証言があるにはありますが、混乱のさ中で遺体も見つからず、最期はいまもってわかりません。






























 







島田氏が学生時代に打ち込んだのが野球でした。兵庫二中から旧制三高、東京帝大と野球部で通し、その経験はその後の人生観や行動に大きな影響をもたらしたとされています。顕彰碑が球場前にあるのはそういうわけなのです。



ところで、兵庫二中といえば、一部マニアの方にはお馴染みですね。第1回の夏の大会出場校にして皆勤校の一つ、現在の県立兵庫高校のことです。



島田氏は1901年生まれで第1回夏の大会(1915年)は14歳、つまり中学二年ですから全国大会の出場メンバーではありませんでした。兵庫高校の野球部史によれば、1917,18年に島田という選手が出場しており、学年も四年、五年とつじつまが合っています。外野手でしたが時には登板もしたようです。



来てみるまでわたしはこんなモニュメントが立っているとは知らなかったのですが(汗)、これは実は今年の6月にできたばかり。もし去年の今ごろ来ていれば見られなかったわけです。






















(道路案内板には戦跡が並ぶ)
今回の沖縄遠征にあたっては、沖縄戦関連の本を何冊か読み進めていました。その中に島田知事の奮闘を描いたものもありました。こんなに大きな記念碑を見逃すとも思えませんが、やはり逸話を知っているのと知らないのとでは感じるところが違ったでしょう。



夏の大会は甲子園へと舞台を移しますが、敗れたチームは新チームを結成して再始動しています。県内最初の大会である新人戦の優勝チームには優勝杯が授与されます。その名は「島田杯」。いうまでもなく、島田知事の名を戴いたものです。















 







(沖縄の空に球音響く)



(参考:『沖縄の島守−内務官僚かく戦えり』田村洋三/中央公論新社/2003)










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