西の東洋、東の報徳

5月4日GW後半です。

今日は日立公園市民球場へ車を飛ばそうかと思いましたが家でゆっくりしました。

茨城県の春季大会の結果は御存じかと思いますが下記の通りになりました。

 

(J-COM土浦球場)

第一試合

 霞ヶ浦5対3土浦日大

 

第二試合

 常総学院9対2取手一高

 

(日立公園市民野球場)

第一試合

 明秀日立3対1藤代

 

第二試合

 水戸商業8対3日立一高

 

という結果になった。

 

5月5日の準決勝はJ-COM土浦球場で

第一試合 明秀日立VS水戸商業

第二試合 霞ヶ浦VS常総学院の対戦となり勝った方が千葉県で行われる春季関東大会へ出場する。

 

さて大相撲でも西と東があります。食の世界でも西の河豚、東の鮟鱇。温泉でも西の有馬、東の箱根。

昔はVTRデッキの世界でも西のマックロード、東のマスタクッス。と世の比較は北と南より、西と東で比較される場合が多い。

 

そんな中高校野球の甲子園がある兵庫県その兵庫県の高校野球界においても一部の高校野球マニアにもそのように呼ばれているのが「西の東洋、東の報徳」である。

 

兵庫県は古くは神戸一中、甲陽中学、神港橘(第一神港)、関西学院、芦屋などがリードしてきていたが戦後になり西の東洋大姫路、東の報徳学園が甲子園で活躍するようになる。

 

東洋大姫路は昭和38年に東洋大学の付属高校として創立、昭和38年に同時に創部し梅谷馨監督が就任し。昭和44年エース杉本正時で甲子園初出場、その後何度か甲子園へ出場、昭和49年夏にはエース山口茂典、そして後日監督になる藤田明彦がレフトを守り、2回戦で山形南を5対2で破り、3回戦で平安高校に3対4と惜敗。

 

51年春の選抜でエース小南を擁して県岐阜商業、習志野、智辯学園などを破りベスト4迄進出するが小山高校に0対1とまたしても惜敗する。

 

そして翌年の1977年昭和52年夏の第59回選手権大会ではエース松本正志、控え宮本賢治を擁し

2回戦 4対0 千葉商業

3回戦 5対0 浜田高校

準々決勝 8対3 豊城高校

準決勝 1対0 今治西高校(延長10回)

決勝  4対1 東邦高校(延長10回)

という激戦の中見事初優勝に輝いた。決勝戦はあの東邦高校の坂本圭一(1年生)から4番主将の安井がライトラッキーゾーンへのサヨナラ本塁打で蹴りをつけた。

 

私が丁度高校3年の夏、今でもあの安井の放物線を描きライトへ飛んだ白球と、マウンド上で悲しそうにボールの行方を見る東邦高校1年生坂本の眼が今でも瞼の奥に残っている。

 

その後も東洋大姫路は野球どころ兵庫県の代表として甲子園へ出て来てコンスタントな成績を挙げている

 

甲子園通算出場 春7回 夏12回

甲子園通算成績 31勝17敗1分

優勝 夏1回である。

 

(第59回決勝戦 対東邦戦で東洋大姫路安井は延長10回ライトラッキーゾーンへサヨナラ3ランを放つ)

 (東洋大姫路の基礎を気づいた故 梅谷馨監督)

 (梅谷馨の後を引き継ぎだ田中監督と藤田監督)

 

 

 

 

東洋大姫路に対して東の王者はやはり報徳学園である。

報徳学園は明治44年大江市松が神戸御影に報徳実業学校として創設、大正13年報徳商業学校となり、昭和22年今の西宮へ移転し、昭和27年報徳学園高校に改称する。

 

甲子園初出場は昭和36年夏の選手権でエース酒井葵三夫(明治大学)で甲子園初出場を果たす。

この大会の1回戦で今でも伝説となる逆転劇を倉敷工業との間に演じるのである。

下記スコアを観ればその凄さが分かると思います。

 

11回倉敷工業が6点リードで報徳学園の攻撃、これまで予選を一人で投げ抜いてきて怪我で甲子園登板していない、森脇をマウンドへおくるが、そこから報徳学園が奇跡の逆転劇を演じるのである。

 

今でこそ「逆転のPL」という言葉有名であるが、その前は「逆転の報徳」だったのである。

 

 

倉敷工業000000000060 6

報徳学園000000000061x 7

 

倉敷工業:永山、森脇→槌田

報徳学園:酒井、東→高橋 

 

 

その後1974年昭和49年第46回の選抜高校野球ではダークホース的な存在の報徳学園は土浦日大、銚子商業などの優勝候補を撃破し快進撃を続けるのである。

投手は先発の右腕住吉、リリーフの左腕東、そして打撃陣は三砂、渋谷などを擁しそして福嶋敦彦監督の継投策も見事にはまった。

戦歴は

1回戦 4対3 鹿児島商工

2回戦 2対1 土浦日大

準々決勝 2対1 銚子商業

準決勝 5対1 平安高校

決勝 3対1 池田高校

と見事初優勝で紫紺の大旗を手にしたのである。

 

翌年の第47回選抜も右サイドハンドの滝井投手を擁して2連覇を狙ったが準決勝で優勝した高知高校の前に2対3と惜敗している。

 

その後何度も甲子園へ出場しており

1981年(昭和56年)第53回夏の選手権大会でエース金村義明を擁して決勝で京都商業を2対0で破り夏初優勝を遂げた。

 

そして選抜では2002年(平成14年)第74回大会ではエース大谷智久を擁し決勝で鳴門工業を8対2で破り選抜2度目の優勝を飾った。

 

甲子園通算出場 春21回 夏14回

甲子園通算成績 58勝 32敗

優勝 春2回 夏 1回

となっている。

 

東洋大姫路と報徳学園。これからも良きライバルとして甲子園で名勝負を繰り広げて欲しい。

 

 (第46回大会で優勝した報徳学園 リリーフ東の前に駆け寄るナイン)

 (報徳学園の清水監督、報徳の監督退任後PL学園で外野を守っていた桑田の本塁返球を観て中村順司監督へ「投手をやらせろ!」と直談判したという逸話がある、清水なくして桑田なしだ)

 (第46回選抜で優勝した指揮官 福嶋敦彦監督(写真は慶應義塾大学監督時代))

 (先日迄監督を務めた永田監督)

 (対倉敷工業戦の逆転劇、今でも高校野球マニュアの間では奇跡の逆転劇と語り継がれている)

 

 

 

 

                               以上です。

 

 

 

 

 

 

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