私立済美高校(やればできるが魔法の合言葉)

今回は1泊2日の日程で松山への弾丸ツアーです。

テーマは「正岡子規と夏目漱石の文豪達と野ボール関わりを探求する旅」です。

 

松山市は御存じの通り愛媛県の県庁所在地であり、文豪夏目漱石や正岡子規が暮らした街でもあり、また日本最古の温泉道後温泉があり風光明媚な土地である。

 

松山は四国四商の代表格と言われるほどの野球どころである。

 

そんな松山市湊町7-9-1に済美高校がある。

 

明治34年澤田亀が松山裁縫伝習所として設立し、9月には松山女子裁縫研究会を設立、38年勝山女子高校たなり、44年済美高等女学校となった。昭和23年の学制改革で女子校の済美高校を改称。平成14年共学となる。

 

共学に転じた平成14年に野球部創部し宇和島東高校で全国制覇した上甲正典を監督に招聘。

 

創部2年目の15年秋に1年生エース福井優也に3番高橋勇丞、4番鵜久森敦志の強力打線で県大会初優勝を成る。四国大会では決勝で明徳義塾を大逆転の末に破り見事優勝を飾り選抜の切符を確実なものにした。

 

2004年(平成16年)の第76回大会選抜では初出場初優勝の快挙を成し遂げた。

準々決勝であのダルビッシュを打ち崩しでの価値ある優勝で有る。

戦歴は以下の通りである。

 

○9-0 土浦湖北
○1-0 東邦
○7-6 東北
○7-6 明徳義塾
○6-5 愛工大名電

 

同年夏も第86回選手権大会に出場。

春夏連覇と思われたが、あの駒大苫小牧の打撃戦の末敗れ去った。

夏の戦歴は以下のとおりである。

 

○11-8 秋田商
○6-0 岩国
○2-1 中京大中京
○5-2 千葉経大付
●10-13 駒大苫小牧

 

2013年(平成15年)にも安樂智大を擁し甲子園へ出場しており

第85回選抜大会は一回戦で広陵高校を倒しと波に乗り決勝迄進出したが浦和学院に1対17と大敗した。

戦歴は以下のとおりである

○4-3 広陵
○4-1 済々黌
○6-3 県岐阜商
○3-2 高知
●1-17 浦和学院

 

選手権大会も出場したが3回戦で花巻東に敗れている。

○9-7 三重
●6-7 花巻東

 

やはり済美と言えば監督上甲正典を語らずしては居られない。

1947年6月24日愛媛県の宇和島市に生まれる

宇和島東高では三塁手として活躍するも甲子園出場は無し。その後、龍谷大学文学部社会学科(現在は社会学部社会学科)に進学。4年間ベンチ入りしたが、リーグ戦には8試合の出場にとどまった。大学卒業後の1969年に京都の三和金属に就職したが、すぐ退社。宇和島に戻り製薬会社に再就職。セールスの傍ら薬種商になる勉強を重ねて、薬店を開く。

 

1975年に母校・宇和島東高校のコーチとなり、2年後に監督就任。1987年の第59回選抜大会で甲子園初出場。翌年春の第60回の選抜大会で宇和島東高を選抜初出場初優勝に導く。

済美高校と2校で初出場初優勝を飾ったのはおそらく上甲監督しかいないのではないか?

 

小川→明神のバッテリーと抜群のチームワークそして決勝では鬼の坂口の東邦と仏の上甲の戦い。

試合は6対0で仏の上甲が圧勝した。

戦歴は以下の通りである。

 

○9-0 野洲
○9-3 近大付
○5-4 宇部商
○5-4 桐蔭学園
○6-0 東邦

 

その上甲監督も胆道がんのため2014年9月愛媛県東温市の病院で死去した。67歳没でありあまりにも早すぎる旅立ちである。

上甲の亡くなる1週間前の8月26日、同じ四国の強豪校である明徳義塾の野球部監督・馬淵史郎との会話を長女に懇願、病室へ見舞いに駆け付けた馬淵は上甲と背中合わせのまま約1時間半の間、野球の想い出話を語っていたという。戒名は「弄球院正岳秀典居士」。

 

 

 

済美高校「やればできるが魔法の合言葉」また甲子園決勝でこの校歌は流れるであろうか?

 

 

 

 

 

                                    以上です。

 

 

 

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