白球の世紀(高校野球100回秘史)

時は明治時代前期、野球有害論が世間では飛び交う!。

朝日新聞は「野球害悪論」の旗振り役であり「野球とその有害」について22回も連載記事を掲載している。

これに対して読売新聞は1911年(明治41年)9月に「野球問題演説会」を開催し、弁士12人のほとんどが

野球擁護論者であった。

 

その後早稲田大学教授の安部磯雄、慶応義塾塾長の鎌田栄吉などは各論文を発表しアマチュアスポーツの観点から野球の重要性を説いている。

 

そんな野球を批判していた朝日新聞が1915年(大正2年)に全国中等野球大会を開催するというおふれを全国に流し、当時最北の地秋田県からは秋田中学が出場することになった。

 

当時は秋田でもなぜ地の果て大阪まで野球をしに行かなければいけないのか?との批判もあり、野球班の一部の先週は出場を断念した。(当時秋田から大阪までは35時間かかった)

しょうがないので他のスポーツ班から選手を借りて試合をした。

 

秋田中学は三重四中を9対1

優勝候補の早稲田実業を3対1で破り決勝へ出場

決勝は御存じの通り京都二中に1対2で敗れている。

 

その当時の秋田中学のエース渡部純司はその後慶応義塾大へ進学するが、家業の煉瓦業を継ぐため、慶応義塾大を中退する。

 

その後戦火の中生き抜いたが、家業の煉瓦業も傾き家業を廃業。

秋田中学の5年先輩の当時の秋田県知事の池田徳治からの紹介で秋田大学に隣接している野球場の管理を任されそこでまた野球との縁が続くのだ。

(住まいはグランドのバックネット裏の管理人室)

 

渡部は試合がある日は朝3時に起きてグランドの手入れを高校野球球児の為に行っていた。

白線を引いて、土の状態を確認して。

 

もし仮に以前、夏の県予選の会場であった秋大球場がその球場であれば、我々も2年の夏試合を行った。

非常に古い球場であったがグランド整備は行き届いていた。(大曲農業に3対4で逆転負け)

(秋大球場(秋田大学野球場)が渡部さんが管理されていたかどうかは定かではないが多分そうだと思う)

 

1973年(第55回)夏の大会で甲子園出場時(一回戦北陽高校に0対1で敗れる)もアルプススタンドから応援をしていた。

 

1993年12月22日93歳という野球漬けの満足な人生を終えた。

 

このような記事が事細かく記載されている。

 

ほか佼成学園の元監督今西錬太郎のすべて

(今西がこんなにすごい選手だとは思っていなかった)

 

倍賞千恵子の弟が日大三高の往年の強打者の倍賞明だったとか?

 

群馬県の中央高校で甲子園出場した小島投手は法政大卒業後北海道拓殖銀行に野球ではいるが経営破綻。

JR北海道でも野球を続けたが環境になじめず、32歳で現役引退。

その小島はなんとアビスパ福岡の元日本代表の小島伸幸だ。

 

日大一高の剛速左腕球投手の保坂英一は夏の大会1回戦で敗れた磐城高校の田村等と親交があり今でも付き合いがあるそうだ。

保坂は文京区でバー「ラ・メール」を開いている。

 

その他もろもろよくぞここまで調査しているな!とつくづく感心する本である。

 

¥1,600円高校野球ファンならば一度は読んでほしい一冊である。

 

 

 

 

                                  おわり

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