
名審判 達摩省一さん。
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篠山鳳明
2025年07月10日 04:35 visibility121
※達摩 省一氏(だるま しょういち)
ウィキはせいいち
雑誌はしょういち
どちらなのか?わからない?
○出身地→大阪府 生→石川県金沢市
○1936年10月生→2016年3月13日没(79歳)
○寝屋川高校→関西大学
NHKの高校野球の解説者でもあり、甲子園で審判としても活躍された。少しばかりあとになり、私が認識したのは関西大学野球部の大監督として黄金時代を築いた方でも有った。
達摩さん自体は関西大学ではあの村山実氏、上田利治氏と同期。
当時は一つ上に中西勝己、一つ下に近藤光郎等の好投手がいて、中々公式戦の登板機会に恵まれなかった。
大学選手権前の長野県飯田市のキャンプに達摩は参加しながらも、大学選手権のメンバーからは漏れてしまったのだ。
飯田から大阪に帰る帰りの電車で車窓を眺めながら
「今に見ておれ!、俺だって!」と誓った。
しかし大学での公式戦の登板は大学4年時の2イニングだけだった。
卒業後は、大阪鉄道高の監督、その後は1962年に関西大学に戻り1967年2月末に学校から野球部監督の就任要請が有った。
達摩は実力主義を徹底させ、学年関係なく選手を先発させた。
1969年春に小柄な投手が市神港から入学して来た。それがあの山口高志である。
此処からが関西大学の黄金時代が始まる。
山口円主将がチームを纏め、山口高志が腕が折れよとばかりの力投
1972年には全勝優勝も飾り大学選手権も制覇、秋も制覇して、明治神宮大会も制覇して史上初のグランドスラムを達成したのだ。
この期を花道として監督の座を去っている。
1979年の8月16日のあの箕島🆚星稜戦では三塁塁審を務めている。
達摩省一さん。
解説者としてコテコテの大阪弁から語られる口調からは、時には選手への思いやりも感じられ、叱咤激励する言葉も感じられた達摩さん。79歳は少しばかり急ぎ過ぎた感が有るなぁ?
☆大学野球NO22(ベースボールマガジン社)
☆1957年大学野球選手名鑑より引用。
- 事務局に通報しました。
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