甲子園と阪神タイガースのルーツ? (消えた球場番外・香櫨園グランド)

  • Mr.black
    2011年03月08日 15:49 visibility2396

阪神「香櫨園(こうろえん)駅」から北に向かって7~8分ほど歩くとJR神戸線の踏切に行き当たります。

 

 


このJR(当時は国鉄)線路の北側の丘陵地一帯にかつて「香櫨園」というかなり大きな遊園地がありました。(写真中央の丘陵地。)


遊園地と言っても今日のようなアトラクションがあるものではなく、動物園・博物館・音楽ホール・運動場などが複合した一大娯楽場だったそうです。

 

開園したのは1907年(明治40年)。造ったのは実業家の香野蔵治氏と櫨山慶次郎氏。この二人の名前を取って「香櫨園」と命名されたということです。

この遊園地が沿線であることから阪神電鉄も資金援助を行いました。


この地に転機がやって来たのは1910年(明治43年)のこと。

早稲田大学がシカゴ大学を日本に招致し、野球部の対抗試合が行われたのです。


この試合を関西でも行いたいと考えた大阪毎日新聞が阪神に対して野球場の建設を依頼しました。当時関西にはまだ野球場がほとんど無い時代でした。(豊中グラウンドが造られるのはこの3年後のこと。)

 

阪神は大阪毎日新聞の依頼を受けて香櫨園内の西側にあった運動場に野球グランドを造りました。

この工事は僅か2週間だったということです。何しろ急造なグランドだったのでスタンドやフェンスなどもちゃんとしておらず、雑草が多少生えた草野球場レベルであったと言われています。


またこの地は丘陵地だったためグランドは完全な平坦ではなく、外野の後方は斜面だったとも言われています。ゴロが外野を抜けてこの斜面に転がって行くと野手は大変でした。

 

そういう状況だったので入場料は取らず、無料で観戦が出来たそうです。

試合はこのグランドで3日間行われたということでした。(試合結果は不明。)


入場料を取らなかったとはいえ、この試合を観戦するために多くの観客がやって来てその結果、阪神電鉄はかなりの運賃収入を得たということです。

これは阪神にとっては大きなヒントを得る機会でした。


「自社沿線に野球場を作って試合を行えば観戦客が大勢やって来る。それにより運賃収入が飛躍的に上がる。また香櫨園は急造グランドだったので無料にしたが、ちゃんとした野球場を造れば入場料が取れる。結果として複合的な収入が得られる」と考えたのです。


これが阪神が後々鳴尾球場を造って高校野球(中等学校野球)を誘致し、更に甲子園球場を建設し、最終的に大阪タイガースを創設することに繋がったのは間違いないでしょう。

いわば阪神が野球事業を行うきっかけになった場所が香櫨園グランドだったわけです。

 

しかしこのグランドは短命に終わりました。土地が第三者に渡り、地代と遊園地収入とのバランスが崩れ1913年に園全体が閉鎖されてしまったのです。


「香櫨園」は敷地全体としては現在の西宮市殿山町・雲井町・松園町・霞町・相生町・羽衣町辺りを占めていたということです。阪急夙川駅からJR線北部一帯にわたるかなりの広さがあったのですね。

そして野球グランドは敷地の西側に存在していたようで、松園町辺りにあったと言われています。

 


↑ リニューアル時に写真が横になってしまいました。


 

周辺を歩いてみましたが町の多くはアップダウンがあり、平坦な場所が少なかったです。

グランドの外野側が傾斜していたというのも納得できました。(下り傾斜だった?)

 

散策した限りでは周辺に「香櫨園グランド」の存在を示すものはなく、かつてここに野球場があったということは全く想像できません。

敷地東端の内殿池がかつての香櫨園時代から残っている唯一の施設だということです。

(夙川のダイエー・グルメシティの近くにあります。↓)

 

 

甲子園球場・大阪タイガースへと繋がる阪神の歴史の証人である香櫨園は姿を完全に消滅させています。電鉄側がいつか記念碑などを建設するでしょうか?

(それとも既にどこかにあるのでしょうか?) 


 

↑ 最初現地に行く前には「グランドの跡地かも?」と思っていた公園。


しかし野球グランドがあったと言われる松園町ではなく、この公園は隣の大谷町です。しかも緊急時の貯水池を兼ねた公園で敷地がかなり下に窪んでいます。なので旧・香櫨園グランドではないと思われます。

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