消えた球場(38)宇都宮常設球場
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Mr.black
2017年05月14日 17:41 visibility3259
その野球場は1932年(昭和7年)建設されたということです。
当時とある人物が「隣の群馬県には立派な野球場(※後述)があるのに我が県には無い。野球を普及させる為、そして県の野球レベルを上げる為には栃木にもしっかりした野球場の建設が必要」と唱え、その尽力があって完成したのが「宇都宮常設球場」です。
名称に「常設」という言葉がわざわざ使用されているのは「仮設や間に合わせのものではない立派な野球場である」という意思表示だったのかもしれません。
この野球場はその2年後の1934年(昭和9年)に脚光を浴びることになります。この年、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなど錚々たるメンバーで来日した全米チームとの「日米野球」の試合会場になったのです。
その国内最終戦が宇都宮常設球場で開催されたという歴史が残っています。
グランドは一説には両翼100m、センター115mだったとのこと。かなりの規模ですね。
やがて太平洋戦争が始まるとグランドは畑や高射砲陣地として利用されます。
「敵国スポーツ」である野球は戦時色が濃くなった頃から白い目で見られ、それを回避する為に「お国の役に立っている」という姿勢を示す必要があったのでしょうね。宇都宮以外でも戦時中は畑や物資保管庫や練兵所などに徴用された野球場は全国各地にあります。
戦後1949年(昭和24年)に再興された球場は1960年(昭和35年)まで存続しましたが、当時既に栃木県営球場(宇都宮市内)などが存在していたこともあり、役目は終えたということで閉鎖されました。
当時は学校が不足していたこともあって跡地は小学校になりました。
現在の「宮の原小学校」が球場跡地です。
しかし長い年月の間にその歴史は忘れ去られつつありました。
そこで2002年(平成14年)に球場の顕彰碑が校門のすぐそばに設置されることになりました。
これがその顕彰碑。高さは1m少々。
地元宇都宮市で採れる大谷石(おおやいし)で作られているということです。
説明文の下側の四角い部分は球場を含んだ周辺の航空写真(戦前の写真)を石に刷り込んだ物です。ただ、建設から15年も経っているので、ややすり減っており視認しづらい状態になっていました。
しかしこのような顕彰碑が建てられたことは野球場好きの私にとっては非常に嬉しいことです。
土地の歴史を後世に伝える、これは重要なことであると考えているので建設に尽力された方々に敬服し、そして感謝もしております。
校庭では子供たちが遊んでいました。やっていたのはサッカーでしたがね。(汗)
今回の遠征では現存する栃木県内の3球場(栃木県営・栃木市営・宇都宮清原)、そしてこの常設球場跡地を一気に見分することが出来ました。
「過去と現在」を体感し、「未来」へ思いをはせる。「消えた球場レポート」は私自身がちょっとした時の旅人になり、それを誰かに伝える目的で実施しています。
今まで訪問した球場跡地はここを含めて33箇所(プラス「番外」として4箇所)になりました。
機会があればいつかまた。
(※)
「群馬には立派な野球場がある」 というのは年代から推測するとおそらくは桐生市にあった「新川球場」のことではないか?と思っています。新川球場の建設は宇都宮常設球場完成の4年前、1928年(昭和3年)のことです。
新川球場は桐生中学(現:桐生高校)が甲子園に出場したことで市内に野球熱が高まり、その反面同校のグランド状況が芳しくなかった為、地元の有志が資金を集めて建設した球場です。しかしながら「地元の学校が引き続き甲子園に出られるように」との願いを込め、有志で尽力して建設したというのは凄い情熱ですね。
残念ながら現在は閉鎖されて公園になっています。
この「群馬に立派な野球場があるので負けじと我が県にも」というあたりを考えると、やはり北関東の3県には並々ならぬ対抗心がある証拠ですね。
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