フェンシング部の先輩の話
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こじっく
2013年12月03日 00:13 visibility802
3年ぐらい前に書いた文章がパソコンから出てきたので書き直しました。
結構頑張って書いたのですが、度が過ぎた長文になってしまったので、だるい~と思われた方は本当に遠慮なくスル―して下さい。
いつの日か、この拙文がかつての僕と同じような、運動が苦手だけど部活を頑張っている中学生や高校生の方の目にとまり、微々たるものであっても役に立てばうれしいです。その意味で、タイムカプセルに入れるつもりで投稿します。
出てくる人の名前は仮名にしました。
だいぶ前の24時間テレビで「あなたにとってのヒーローは誰ですか?」というテーマでゲストや一般の視聴者の方がそれに答えると言うことをされていました。
僕は母とそれを見ていました。
母は、
「私にとってのヒーローはあなたよ。ありがとう」
何と優しい母!
ダメ人間の僕を励まそうと精一杯の激励をしてくれた。
今思うと、涙が出そうになる。
しかし、その時、僕は
「僕にとってのヒーローは・・・フェンシング部の時、お世話になった川崎さん」
と言った。それは、そのときの僕の素直な気持だった。
しかし、母は
「もう、いい!」
と怒ってしまった。当たり前だ。素直に感謝し「ありがとうお母さん!」と言えばよかったのだ。
だけど、僕はいまだに川崎さんを尊敬している。この気持は、ずっと変らない。
前置きが長くなったが、川崎さんについて書きたいと思う。
川崎さんは僕より一つ先輩で、高校1年の春、フェンシング部を見学していた僕を練習の輪の中に連れて行ってくださったことを昨日のことのように思い出す。
川崎さんは、誠に失礼ながら、運動神経抜群と言える方ではなく、はっきり言って不器用で何事もすぐに緊張して力が入ってしまうタイプの方だった。
試合の日も、個人戦で早々と負けて後は3年生の先輩の付き人をされている姿を良く見ていた。
しかし、僕ら1年生の面倒見のよさは3人おられた2年生の先輩中ナンバーワンだった。
つまり、ものすごい気遣いの人。
決してあとのお二方は気がきかないということはないのだが、3年生をうちわで扇いだり、ジュースを買いに行ったり、道具を整理したり・・・いつもチームのため動き回っておられるのは不思議と川崎さんだったのだ。
僕は川崎さんを見て「こういう人になろう!」と思った。
夏休みの合宿の時、部長選挙があって、僕は迷わず川崎さんに投票した。川崎さんは1票差で部長に当選された。人には色々な価値観があり、何が間違っているなんて言えるものではないし、そもそも人が人の価値を判断するなんて不遜なことと思いながら・・・僕は川崎さんが部長になられたことに対して安堵した。「安堵」これが正直な気持だった。自分と似たものの考え方、感じ方をする人が部長になって下さった。これで僕もクラブを続けられる・・・そう思った。
それから川崎さんの練習は見ていてすごかった。いや、僕が見ていないところではもっとすごかったのだと思う。誰よりも必死に練習時間中動き回っておられた。今までは雑用で走り回っておられる印象だったが、今度は練習で絶えず動いておられた。僕もできるだけ川崎さんの力になろうと思い、チームの雑用を出来る限りやった。
新チームは大橋さんという全国で通用する絶対のエースがおられ、OBからの期待も高かった。
新チームになってから初めての個人戦の大会。
大橋さんは圧倒的な強さで優勝。
川崎さんも6位に入賞された。
その時川崎さんは安堵と嬉しさで何ともいえない表情をされていた。
ちなみに僕は1回戦敗退・・・。
でも、僕も嬉しかった。僕も1年後はこの大会で入賞しようと思った。
しかし、いいことは続かない。
次の大会では川崎さんは優勝を決める6人のリーグに残れず、チームにとって最も重要な団体戦でも準優勝に終わり、春の全国大会への出場権を逃した。
この時の川崎さんの表情も忘れられない。部長として冷静でいなきゃいけないという理性と、隠せない無念さが手に取るようにわかった。
しかし、僕ら1年生はチームの敗戦もどこか他人事のような気がして、試合が終わっても体育館で遊んでいた。
川崎さんはそんな僕らを見て「罰トレ」を命じられた。川崎さんが「罰トレ」を命じられたのは後にも先にもこの1回だけだった。
その後、川崎さんは冬の新人戦で入賞、チームも団体戦で優勝・・・と挽回を果たし、勝負の春を迎えた。
春の近畿大会。個人戦では大橋さんが優勝。川崎さんは7位入賞。チームも団体戦で他県の強豪を次々倒し決勝進出。
3人の総当りで戦う団体戦決勝は4勝4敗で迎えた運命の9戦目、川崎さんがチームの明暗を背負うことになった。川崎さんはいつものように低い姿勢で精一杯動き回り果敢に攻撃を続けられる。
得点は4-4。最後のポイントを巡っての攻防が続く。どちらも必死で、遠目ではどちらのポイントか分からない。
審判機のランプが点り、審判が試合を止める。
僕らは息を呑む。
審判が告げたのは・・・川崎さんのポイント!我が部の優勝だ!
本当に嬉しかった。誇らしかった。
それは、単に大きな大会で我が部が優勝したとか、大好きな川崎さんが入賞されたから良かったとかいうものではなかったと思う。
それはどういうことかというと・・・
・・・ここまで読んで頂いたところで、川崎さんと僕は部活の一人の先輩と後輩という間柄にしか見えないと思う。
しかしその頃、僕は誰も見ていないところで川崎さんにすごくお世話になってしまう事情が生じてしまっていたのだ・・・・。
特に数学が酷かった。
そこで母は、良い家庭教師の先生をつけてくれた。
すると、先生の教え方が良かったことと、勉強時間が増えたことで僕の成績は持ち直した。
しかし、2年生になる直前、その先生が僕の受け持ちを続けられなくなってしまった。
母は、近所でも評判の塾に行くことを勧めてくれた。
塾に行くことになると週1回部活をやすまなければならない。
これは辛い。
しかし、僕は「部活を続けられるのは働いてくれている両親のお陰だから、ここは母の言うことをきかないといけない」と思い、塾に行くことを決めた。
この時、妹も同じ塾に行くことを母に言われたのだが、妹は「部活休むなんて絶対イヤ!」と言い張って行かなかった。
しかし、問題は・・・・塾に行くということを部長の川崎さんとコーチをして下さっていたOBの方に言うことだった。これは今でも覚えているのだが、塾に行くという決断をする以上に辛かった。
結局、ちゃんとそれを伝えたのだが、川崎さんには思いがけない迷惑をかけることになってしまった。
川崎さんは、練習時間が減る僕を心配して、「一緒に『朝練』をしよう」と言い出されたのだ。
僕は、川崎さんの気持が嬉しかった。しかし、僕だけ特別に・・・という気持もあった。
でも、結局は「お願いします」と言っている自分がいた。
こうして僕は川崎さんと二人で朝の始業前に45分間毎日練習することになった。
川崎さんは僕の睡眠時間が減ることを心配して僕の両親に説明とお詫びの電話をしようと思われていたようだが、これは僕が頼んで思い止まってもらった。
こういう中でのチームの優勝だった。
川崎さんが3年、僕が2年になったその年の春、他校のフェンシング部にジュニアのアジア大会で3位に入賞した飯野君という選手が入部してきた。僕たちより年下だが、堂々とした態度の大人びた選手だった。
飯野君は僕らより圧倒的に強かった。もしかすると今年のインターハイの個人戦の枠は1年生の飯野君が一つ獲得してしまうのではないか?誰もが口に出さずともそう思っていたと思う。
5月の大会で、個人戦のベスト4に川崎さん、大橋さん、そして飯野君が残った。
トーナメントの組み合わせで、川崎さんと大橋さんが決勝進出をかけて戦うことになった。
その日の川崎さんは気力も体力も技術も戦術も充実。
普段は大橋さんのほうが強いのだが、川崎さんが序盤からリードを奪う。
「ひょっとして・・・」
誰もが固唾を呑む。コーチも無言で試合の進展を見守っておられる。
川崎さんはリードを守り大橋さんを下された。
決勝は川崎さんと飯野君の対戦になった。正直、予想外の展開だった。
川崎さんは低い姿勢で激しく動き、終始攻撃をしかけられていた。一方の飯野君は技術では川崎さんを上回るものがありながら、腰高で防戦。こうなると川崎さんは強い。
川崎さんの優勝が決まった瞬間、僕は川崎さんの腰のワイヤー(フェンシングでは電気審判機で判定するためそう呼ばれている器具を腰につけるのです)を取るため誰よりも早く駆け出していた。この瞬間が3年間の部活で一番嬉しかった。翌年自分が唯一の賞状をもらった時よりも何倍も嬉しかった。
しかし、いいことって、本当に続かない・・・。
その後、川崎さんはちょっとしたスランプに陥られた。
インターハイのフルーレ個人戦では決勝リーグに残れなかった(フルーレとは、太田雄貴選手が銀メダルを取った種目で、高校ではこの種目を中心に練習します。高校で団体戦があるのはこの種目だけです)。
しかし、団体戦では川崎さんが責任感を前面に出しての戦い!薄氷を踏むような試合でしたが我が部がインターハイ出場権獲得。・・・あぁ、良かった。
この試合で覚えていることは、川崎さんが試合の直前、「ペン貸して!」と言われ僕のペンケースからペンを取って審判に出すメンバー表を書こうとされました。しかし川崎さんが手にされたのは書けないペンだったのです。さすがの川崎さんも「なんで書けないペンなんて入れているんだよ!」と緊張感と切迫感もあって怒られました。
しかし、その書けないペンは・・・・
「すいません、それ、おじいちゃんの形見なんです」
「えっ、ごめん・・・・」
川崎さんは僕に謝ってくださいました。本当はそれどころじゃないのに・・・。
川崎さんはフルーレこそ不調でしたが、エペという種目で(フェンシングはフルーレ、エペ、サーブルの3種目があるのです)優勝し、出場権を獲得されました。しかも、自分の剣ではなく、試合直前に借りた僕の剣を使って・・・・。
その年のインターハイが遠方であったこともあり、僕らは学校で練習して先輩方の試合の結果を待つことになりました。
インターハイ、エペ個人戦の翌朝。新聞を見た僕は驚きで息が止まりました。川崎さんが3位に入賞されたことが大きく乗っていたからです(地方紙ですから・・・)。
日本中の高校フェンシング部員の最大の目標である団体戦は入賞を果たせず、残念な結果でした。
インターハイが終わって部活に顔を出してくださった川崎さんにエペの試合を申し込んだ僕ですが、川崎さんは笑って受けてくださいませんでした。
「もっと、ファイト(試合形式の練習)しないとダメだと分かった。頑張れよ・・・」
川崎さんはいい感じで力の抜けた表情と声で僕たちにそういってくださいました。
しかし、9月になって新学期・・・。僕と川崎さんの朝練は再開されたのでした。川崎さんは引退されてもなおも僕に練習を毎日つけて下さろうとしたのでした。しかも、僕に飲ませるために冷たいお茶を魔法瓶に入れて持ってきてくださっていました。何でそこまでして下さるのか・・・さすがにそう思いました。朝練は、中間試験の直前まで続きました。
しかし、中間試験後、僕はこれ以上川崎さんに迷惑をかけられないという思いと、ちょっとは勉強しないと両親に悪い・・・という思いから、川崎さんに電話をかけて朝練の終了をお願いしました。川崎さんはホッとした気持と、僕の前途を心配される気持とが入り混じった声でそれを了承してくださいました。
その後の僕のフェンシングがどうなったかということは・・・またゆっくり書きたいです。
川崎さんは大学ではフェンシングをされず、サイクリングとフォークギターを楽しまれました。僕がアルバイトをしているコンビニに、サイクリングの途中で偶然立ち寄って下さってお互いびっくりしたことがありました。
大学へ行くバスで一緒になり、恋愛相談をして下さったこともありました。
大学時代1度飲みに連れていってもらって、僕が酔っ払って「歩いて帰ります」と言ったら、タクシーに乗せてくださった。
全ていい思い出です。
そして・・・川崎さんの大学卒業式の日、花束を渡せてよかった。
それが今のところ、川崎さんに会えた最後。その日もお会いできるとは思っていなかった。全くの偶然だった。本当に良かった。このことから恐らく神様は本当にいると思った。
川崎さん、本当にありがとうございました。
- 事務局に通報しました。
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