野球読書日記「星野ドラゴンズ戦闘録」

  阪神ファンの私は、阪神を2003年のリーグ優勝に導いて下さった故星野仙一さんを尊敬しています。2001年秋の星野さんの監督就任なくして阪神の優勝はなかったと思います。世間の阪神を見る目、そしてチームに漂う「気」を変えて下さったのは星野さんです。星野さんが阪神におられた時代がなければ、今も甲子園球場にあれだけのお客さんが入ることはなかったのではないかと思います。何だかんだ言って、ほぼ毎年阪神ファンが阪神優勝への期待を口にできるのは2003年の優勝があったからではないでしょうか。

 星野さんの監督としての哲学は川上哲治さんから学んだものではないかと言われています。この本でも、

 

「現役時代、ジャイアンツキラーとし 名を馳せた星野は1986年のシー ズン終了後、再建の切り札としてぬる ま湯一掃を期待され、ドラゴンズの監 督となった。38歳の秋のことだ。引退 後、野球解説者として、さらには『サ ンデースポーツスペシャル』のキャス ターとしてNHKで活躍していた星野が 薫陶を受けていたのが、NHK解説 の大先輩、ジャイアンツを率いてV9を成し遂げた大監督、川上哲治だっ たことはよく知られている。 星野はこ とあるごとに川上に教えを請い、川上 に連れられて禅寺で座禅を組んだこと もあった」(51頁)

 

 と紹介されています。

 また、星野さんの情熱と表裏一体で語られることもある「鉄拳制裁」についても次のような指摘があります。

 

「矢吹 (前略)もう一つ、星野さ んの代名詞の一つに鉄拳制裁〟が あったじゃないですか。 あれは結局、 上の世代の人たちに対するアピール だったんじゃないかと、大人になっ てからすごく思うんです。 NPB史 上初の戦後生まれの監督で、最初に 監督になったときは39歳。『若造』と いう見方を少なからずされる中で、 『ナメるなよ。俺はちゃんとやって いる。戦前生まれの人にも負けてな いから』というのを結構見せつけて いたんじゃないかなって」(82頁 カルロス矢吹さんとえのきどいちろうさんの対談より)

 

 つまり、少なくとも最初の中日監督時代の星野さんは「鉄拳制裁」を辞さない人だったが、それは本当の星野さんの人柄から発現したものではないということでしょうか。暴力はいつの時代であっても認められるものではありません。星野さんもそれを理解しながら、陰で選手やスタッフへの深い信頼と思い遣りを示していたからこそ「鉄拳制裁」だけが切り取られて問題にされることなく、ファンもマスコミも星野さんを支持し続けたということではないでしょうか。

 

 この本に書いてあったことではありませんが、星野さんが阪神の監督に就任する直前か就任時に「気分転換に何の映画を観ていても阪神監督就任要請のことが頭から離れないんだ」とマスコミに語っておられたことが妙に記憶に残っています。その時、「星野さんの気分転換とは映画だったのか」と意外に思いました。常にマスコミに一挙手一投足を報じられ、自身も大変な社交家だった星野さんはなかなか一人になれる時間がなかったと思います。映画館で映画を観たり、あるいは自宅で映画のビデオを観る時が一人で心静かに思索のできる一時だったのではと想像します。

 中日、阪神、楽天。それぞれの球団で星野さんが残した功績は永遠に忘れられることはないでしょう。

 

 

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