野球読書日記「俺たちのパシフィックリーグ 阪急ブレーブス80's」

  私は関西人です。「阪急沿線」というと「上品」というイメージが浮かびます。

 事実、この本にもこんな記述があります。

 

「沿線に住む人は親しみを持って、他の 地域に住む人は多少の憧れを添えて『阪 急』の名を口にする。 平和で、長閑で、 心のどこかに余裕があって、けっして切 羽詰まっていない。 それを『豊かさ』と いう言葉に置き換えてもいいだろう。あ ずき色の車体と、緑のロングシート。 料 金は庶民的で、しかしハイスタンダード。 それは阪急の企業風土そのものだ」(96頁)

 

 私は子どもの頃、西宮カントリークラブの傍にあった「関西小児ぜんそくセンター」に合宿に行っていました。京都の河原町から阪急京都線に乗って、十三で乗り換え宝塚線に乗り換えて逆瀬川まで行くのですが車内では宝塚歌劇団、そして阪急ブレーブスの吊り広告に目を奪われました。阪急河原町駅の改札口には阪急ブレーブスの試合経過を知らせる小さな電光掲示板がありました。駅の上にある阪急百貨店には阪急の選手のポスターを見ることができました。今でも山沖之彦さんのポスターを思い出します。あの界隈は今思うと京都で一番「プロ野球」を身近に感じさせる場所だったかもしれません。

 「阪急グループは豊かな会社」

 そう思っていました。

 だからこそ、1988年のオリックスへの球団譲渡は衝撃的でした。

 当然、「青天の霹靂」だった当時の阪急ブレーブス選手の皆さんのショックは計り知れないものがあった様で山田久志さんと福本豊さんの対談ではこんなことも語られています。

 

「福本 十三は阪急電車の京都線、神戸線、 宝塚線が通っている、梅田から人が集ま るポイントの駅。 あそこにドームができ ていたら、 そらお客さんも入って会社も 儲かったやろうね。

山田 そのための土地もあって、構想を練っていたと聞いたことがある。

福本 実際、当時はお客さんが入ってい なかったからね。もし身売りの話があと 5年遅かったら、またどうなっていたん かなとか、いろいろ思うわ。(16頁)」

 

 選手、そして阪急球団も最終年まで未来に希望を持っていたのです。起きた現実は一つだし、歴史は戻すことができません。また、今日まで球団を保有し続け、関西球団の灯を守っているオリックスに感謝しなければいけません。しかし、後年阪急と阪神の経営統合が行われるとはあの時には想像もつかないことでした。

 日本経済の停滞は否めず、その潮流がこれからのプロ野球にどんな影響を及ぼすのか、未来は混沌としています。オリックスや阪神に限らず各球団は過去の歴史を検証し、現状分析と未来予測をする中で野球界の発展とファンのために良いと信じた改革は躊躇わず進めて頂きたいと思います。

 

 

sell野球

chat コメント 

コメントをもっと見る

通報するとLaBOLA事務局に報告されます。
全ての通報に対応できるとは限りませんので、予めご了承ください。

  • 事務局に通報しました。