人は変化に慣れるもの
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DIME
2008年01月24日 12:32 visibility62
携帯という利器がこれだけ急激に広がってしまうと、携帯があることが前提の社会となってしまって、携帯無しで待ち合わせするにも一苦労ってこととか。
言語にしても日本語っていうのは変化の激しい方に属する言語ですから、10年一昔で言葉の意味がまったく変わる。ちょっと古いので言えば副詞としての「全然」の後に続くのは15年ぐらい前には『否定』でなければいけなかったはずなんですが、今は肯定・否定に関わらず使われているキライがある、辞書とかを引けば『否定』を伴うってまだ書いてるはずです。
まぁ結局何が言いたいかというと今は違和感がどれだけあろうともね、しばらくやっていればそれに慣れてしまいますよって事です、プレーオフの制度。
今回のプレーオフ関連の書き込みでどうしても気になるのは、「短期戦で決めることには問題がある」とか言いながら、「昔からやっていた7回戦の日本シリーズはOK」と本質的な矛盾を抱えた主張がなんか多すぎる。
それって結局はただの『慣れ』の問題のように思えます、自分はずっとそれでプロ野球を見てきたから昔の形での短期決戦ならば、『慣れ』ているのでなんとなく許容してしまってる。
それに対して導入されたばかりのプレーオフ制度には自分はまだ『慣れ』ていないので大きく違和感を感じる、本質的には両方とも同じことなのに、そう客観視することは出来ない。
世間に現れているプレーオフ反対論というのは、そういう『慣れ』ていないがために生じただけに過ぎない違和感を、後付の理由で無理矢理に正当化しようとしているように見えます。
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たとえば、7回戦制ならば実力差はちゃんと出るとか。
100以上の試行回数を重ねてその有意差が数パーセント(聞きなれた言葉で言えば1%が1分です、例えばここ3年間の両リーグでもっとも1・2位に差があった05年セで阪神と中日の差は7.2%)しか出ないものを7回の試行回数で正確な差が求められるわけが無いですよ。
そりゃ別に全てが確率論で決まる、短期決戦で勝つということに数字に出ない実力差が関係するという主張も理解はできますしそれは正しいと思います、でも問題はそこじゃない。それを言うならプレーオフも全部そう。昔の日本シリーズだけはそれが正しく出て、今のプレーオフが正しく出ない、そんな違いはその主張からは生まれないでしょ。今のプレーオフと昔の日本シリーズに違いがあったかどうかという論点から言えば、何も違わない。
たとえば、長期戦で優勝を決めたチーム同士だから、どちらが優勝しようとも十分日本一と言える価値があるとか。
これは一見正しそうですよね、でもまったく正しくは無い。確かに2リーグに分かれて長期戦を行った結果として勝率の高かった2チームのどちらかが日本一である可能性が高いと『推定』することは可能です。たぶん、それは正しい可能性が高い。
でもその可能性が高いのが何なのですか、それが何の価値を持つというのですか。『可能性の高い2チーム』だからといってその2チームのどちらかを短期決戦で1番と決定することの正当性にはなんらつながりが有りません。
「長期観察の結果から2つの優れた要素を選別し、短期の活動の結果によってその2個に優劣を設ける」事を行っているわけです。
「長期観察の結果から3つの優れた要素を選別し、短期の活動の結果によってその3個に優劣を設ける」活動である、プレーオフと本質的には何も変わらない。
「両方とも優勝しているのだから」という印象論で無理矢理その2つがちがうものであるかのように主張しているだけです。
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私なんかは、ずっと「昔からの日本シリーズ」自体に疑問を持ち続けていたので、そういう世間の『慣れ』が逆に違和感となってしまいます。
たとえば、サッカーやバスケットとかは、どこのリーグをとってもレギュラーシーズンの優勝チームの勝率が他のスポーツと比べても頭一つ更に上。
NFLはレギュラーシーズンも試合数少なくて全試合一発勝負みたいなものです、あれは、そもそも長期で決めていない、運や気象条件、怪我人等も実力のうちと言う割りきりがはっきりしている。
結局は野球もスポーツとして黒白がはっきりつくかどうか次第なんですよ。もちろんここまで白黒つけばOKで、ここから先はNGだというデッドラインを明確に引くことはできません、けれども明らかに野球の勝敗はそれらのスポーツとは違うところに属していることだけは確かです。ラインは引けなくても異常である事はわかるんです。
先日書いたことを再び引用すれば、例えば直近のシーズン(現在行われているものはその1つ前)、BJリーグ勝率1位の大阪は.750、Xリーグで勝率1位だったオンワードスカイラークスは全勝(1.000)、Vリーグ女子の勝率1位はパイオニアと久光製薬が.778、Vリーグ男子の勝率1位はサントリーが.714、JリーグがJ1が鹿島の.800、J2が札幌の.867(Jリーグの場合は引き分けは除いて出しています)。では野球はどうであるかといえば、今年の巨人が.559、日本ハムが.568、明らかに他のスポーツとは一線を画している数値です、明らかに他のスポーツが保持している属性の1つが足りてません。
野球というスポーツで、長期戦の結果にもとづく「日本一」を決める方法は1つしかありません、1リーグ総当り回戦制です。
だから、あえて言わせてもらえれば、1950年以降このかた、日本には長期戦によって決められた『日本一』のチームと言うのは存在していない、と私は考えています。
もちろん日本シリーズの結果は尊重していますし、それを理由にしてその「日本一」という価値を貶めたり蔑ろにするつもりはないです、むしろ長期で決めることだけが唯一絶対の正しさではないはずと思っています。ただ単純に「長期戦による結果」にはなっていないと思っているだけ。
また、存在していないことを残念に思っていたり、或いは「日本一」というものは正確に出さなければいけないと思っているわけでも有りません、運も実力のうちとか使い勝手のいい言葉はいくつかありますが、極論を言えば、物理の実験やってるんじゃないんだから「正確性」を追い求める必要は特に無いでしょ、楽しめればそれでいい。
そもそもこれだけ勝率が低いと、長期戦とはいっても140試合程度で実際に実力差が正当に反映されているかということすら十分怪しい、そう思っています。
私は別に正確性を追い求めているわけじゃないです。正確性にこだわるのはプレーオフに反対する人、その人たちがプレーオフの反対の論拠として『日本一』にその言葉が持っているだけの“本当の権威”があるべきで、その権威は長期戦の結果を尊重したことから生まれていると主張しているからです。その主張はおかしいですよって言うために
「長期戦の結果に尊重された日本一でなければならない」、そう主張するのであれば、1リーグに統合することが必要です。それができないのであれば、本質的にその『日本一』は長期戦に拠ったものでは有りません。他は全部半端です、これまでのも含めて。目くそが鼻くそ笑ってるだけですよ。
日本一を2チームがサイコロを振って決めていたか、6チームにサイコロ振る権利を与えるか、昔の日本シリーズと現行制度にはその程度の差しかないのです、その程度の差だからこそ、興行的にオイシイ方を選べばいいじゃん、としか私には思えないのです。
もちろんサイコロの振り方に習熟しているのも実力のうち、偶然良い目が出るのも実力のうち、ルールの範囲内でサイコロに細工をするのも実力のうち。だから「サイコロを振る」ことが決定方法に組み込まれていることに否やは無いです、「サイコロ振る」という部分をなくせとは思いません。
ただ今までだって「サイコロを振る」で決めていたのに、今までのそれは良くて、新しい「サイコロを振る」はダメ、というのは変じゃないですか。
それはただ『慣れ』てないだけじゃないですか、って言いたいだけです。
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