長松丸光忠の青春�

「待った!」
 紀州軍の捕手が主審に願い出て、投手のもとに駆け寄り、内野手を集めた。
「もともと負けてやるつもりの稽古試合ではないか。落ち着け。ムキになることもなかろう」
「いや、ここまできたら勝ちたい! わしは勝ちたい!」
「ハッハッハ。無論、勝つ。しかし、そうカッカしては敵の術中にはまる。正木など気にするな。走りたければ走ればよいのじゃ。今日のおぬしの球、ここまで山賀の芯を外してきておる。球威は落ちておらぬ。この戦、わしらは既に勝っておる」
 内野手も口々に声をかける。
「そうじゃ。ここからひとつずつ行こう」
「見ろ、打ち気まんまんじゃ。一番自信のある球、思い切り腕を振って来い」
「転がせば、わしら必ず止める。まずは一死じゃ」
「ああ、もう分った、分った。大丈夫じゃ」
 投手はお山の大将。気休めを言っても仕方が無いのは全員分っている。それでも。
「おぬしの一番良い球で討ち取る。わしはこの勝負をこの球にかける。二の丸など正木にくれてやる。だが、本丸はわしらが必ず守る。お前の球なら、わしらは必ず勝てる」
 捕手はそう言って、ドン、と投手の胸に己の籠手を当てた。
「……わかった」
 その答えに肯きあい、選手たちは籠手を打ちあわせて散開した。ともかく、次の球は決まった。それで負けるなら悔いはない。



「ふん。長い相談だったな」
「……」
 山賀の声を無視して、捕手は本丸に一礼し、座りなおした。



 なるほどなるほど。これはよほど動揺しておる。正木の脚とは、それほどの脅威か。いや、さらに俺の打席ゆえか。
 三の丸上の正木は何の感情も無い顔で、じっとこちらを見ている。こちらを見ているというだけで、山賀の自尊心は満足した。
 おお、任せておけ。歩いて帰してやるわい。
 ニヤリと笑みを返す。正木は、ふん、と横を向いた。通じたらしい。やはり、そういうことらしい。
「ははは。野球は面白い。のう、紀州の」
「何をいまさら。今からもっと面白くしてやるわい」
 紀州の捕手は呟いた。



 試合は再開され、投手はなんと、両手を大きく振りかぶったのである。



(つづく)

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