ケンゾーさんに会ったんだ
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waya
2006年08月01日 05:38 visibility1284
中学2年の冬だった。
その日、親友のYと僕は朝から落ち着かなかった。
終業のチャイムが鳴る、僕はYの方を見る、ヤツと目が合う。 「行くぜぇっ」。 教室をダッシュで飛び出し、ふたりで駅に向かう。 女子たちが僕らの背中に何か言ってたけど、そんなの気にしちゃいられない。僕らは電車に乗って、大宮にあるサッカーショップに行かなきゃなんだ。『あの人』がやってるサッカーショップへ。
まだプロリーグが無かったあの頃、三菱重工(現在の浦和レッズ)の横山謙三というGKがやっているサッカーショップは、いつか行ってみたい店だった。ケンゾーさんは、ポジションはGKだけど、憧れの全日本のレギュラーだった。
Yとふたりで入ったその店は、想像していたよりもちょっと小さかったけど、見たことの無いような外国のポスターや有名選手のサインは、僕らがワクワクするには十分すぎるディスプレイ。
「いらっしゃい」と出てきたのはおばさんだった。あ、ケンゾーさんの奥さんかなと思った。
「あの、ちょっと遠くから来たんです」と言うと、「どこから?」と僕らに聞いたのは奥さんじゃなく、後ろからの野太い声。振り返るとTVや雑誌でしか見たことのないあの人がいる。
「どっひゃぁ〜〜〜」
ケンゾーさんだった。なんで平日のこんな時間にケンゾーさんがいるのかと思ったら、『たまたま荷物を取りに来て』だって。で、おばさんはやっぱり奥さん。
最初のうちは緊張しちゃってうまく喋れなかったけど、来月新しいスパイクを買って貰えること、今日はそのスパイクを見に来たこと。そう、本来の目 的はそれだったんだけど、僕らの通っている中学にはサッカー部が無いけど来年にはなんとかなりそうなことや、今は社会人のチームに入れて貰って毎日吹っ飛 ばされていることを話したり、三菱の選手のことや全日本のことなんかも聞かせて貰えて、僕らは夢のような時間を過ごした。
「来月スパイク買いに来ます」って言ったら「じゃあ好きな選手のサイン貰っておいてあげるよ、誰のがいい?」って、またビックリさせられた。
Yは、自分はFWだから杉山さんのサインがいいと言った。ケンゾーさんと杉山さんは同じ三菱だからそれは大丈夫だろうと思ったけど、僕が 欲しいのはセルジオ越後さんのサイン。越後さんは藤和不動産(現在の湘南ベルマーレ)のMF。言いだしづらかったけど、「藤和不動産のセルジオ越後さんの が欲しいです」ってお願いしたら「いいよ」って笑顔で言ってくれた。
翌月は日曜日の練習をサボって、またYとふたりで行った。ケンゾーさんは居なかったけど、僕らがお願いしたサインはちゃんと用意してあって、奥さんは僕らにそれを渡しながら「試合見に行ってね」と言った。「はい、三菱応援します」って中学生の僕らは調子よく答えた。
僕は新しいスパイクと越後さんのサインが入った紙袋を抱えて、Yは何も買ってないのにラッキーだって、ふたりしてニコニコと家に帰った。
部屋に戻ると、買ってきたばかりのスパイクに紐を通し、一緒に買ったクリームを塗り、サインと靴を机の上に置き、僕はずっとそれを見ていた。
越後さんのサインは今でも宝物だけど、実家の押し入れの奥深くにしまってある。そのときの思い出と一緒に、Yのことを思い出してしまうから。
あいつはその翌年の夏、交通事故で、ね。
- 事務局に通報しました。
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