☆『labola歴仟之雄』でGoogleの画像検索をしてみましたぁ~ダ!(o^∀^o)

 


aoi先生の真似をして、『labola歴仟之雄』でGoogleの画像検索をしてみました~(o^∀^o)


 



最初に出てきたのは、当然のことながら20年前のわたしの写真です。(大嘘)


 


 


 



きっと、夏の予選準皆勤校の麻布高校みたいな画像ばかり出てくるのでしょう!


 


 


 



やはり、夏の予選皆勤校の旭丘高校が出てきました。
第3回夏の大会で、敗者復活戦から優勝したのは有名です。


せっかくですので、原作者であるMr.blackさまの真似をして簡単に記述しておきます。(汗)


高校野球は一度負ければすべてが終わる一発勝負の戦いです。だからどんなにリードされても、最後の最後まで諦めないで必死に戦う姿が胸を打ち、感動を呼ぶのです。
しかし、過去に敗者復活戦が取り入れられ、そこから勝ち上がって優勝した学校があった。
夏の大正5年(第2回大会)に敗者復活戦が1試合取り入れられた。
大正6年の第3回大会には2試合行われ、その中から愛知一中(現・旭丘)が優勝をさらってしまった。
まず1回戦の長野師範(現・信州大学教育学部)戦で、5回に内野の不手際から3点、6回にも1点を追加され、7回から1点ずつを返したが、1点及ばず3‐4で敗れた。しかし、1回戦で敗れた6チームの中から抽選で4チームが選ばれ、勝ち残った2チームが準々決勝に出場できる事となっていた。愛知一中はその抽選に当選した。
敗者復活戦に出場するチームは翌日2試合を戦わなければならなかった。愛知一中はまず午前中の敗者復活戦で、和歌山中(現・桐蔭)と対戦。長谷川武治投手が相手を2安打、10奪三振で完封、初回の1点だけで1‐0で勝利した。午後の準々決勝は、同じ復活組の明星商(現・明星)と対戦。1‐1の8回表2死で、三ゴロを一塁手が失策、二進していた四球の走者が生還し2‐1で辛勝した。この試合、長谷川投手は1点を取られたものの、ノーヒットの17奪三振を奪った。
準決勝は、杵築中(現・大社)戦の9回に追い上げられて2点を許したが、3‐2で勝利し決勝に駒を進めた。長谷川投手はこの3日間で4試合を完投しながら、2安打、11奪三振の力投だった。
決勝戦は関西学院中(現・関西学院)との対戦となったが、ここでも幸運が訪れた。関西学院中のエース内海寛投手(元・毎日のコーチ)と、長谷川投手の投げ合いとなった。長谷川投手は、0‐0の6回表に、安打と送りバントの後、連続四球を与え1死満塁に。内海投手が二ゴロを打つ間に1点を許した。その裏、愛知一中が2死無走者となったところで、猛烈な夕立が来てノーゲームとなり、再試合となった。あと一人アウトになればコールドゲームが成立し、関西学院中の勝利が宣告されるというところを救われたのである。
前日の雨がうそのように晴れ上がった決勝戦の再試合は、再度両投手がお互いに一歩も譲らぬ投手戦で、0‐0のまま延長戦に突入した。その延長14回表愛知一中が、遊撃手の一塁悪送球で出塁した走者を三塁に置いて、2死後、1番打者の当たりそこねの三ゴロが内野安打となり決勝の1点を挙げ1‐0で優勝を飾った。右足を負傷しながら50イニングを一人で投げた長谷川投手は、52個の三振を奪う力投だった。5試合すべて1点差の苦しい試合を投げ切った精神力も見事だった。
こんなエピソードが残されている。それは組み合わせ抽選会で、主催者側から敗者復活戦の説明があった際、たまたま愛知一中の長谷川主将から「もし、敗者復活戦から勝ち上がって勝ち進んでも優勝出来るんですか?」と質問があった。「勿論優勝です」と大会委員が答えたが、そんな事態を予想していた訳ではなく、あくまで念のための質問が、現実のものとなったのである。
この変則的な敗者復活戦は、この大会を最後に廃止された。


 


 



この後も、夏の予選皆勤校みたいな画像ばかり出てくるのでしょう!


 


 


 



んっ?


 


 



はっ?


 


 



おやっ?


 


 



えっ?


 


 



O(≧∇≦)o


 


 



おれっ?


 


 



髪の毛がありますが、誰なのでしょうか?(笑)


 


 



不思議です。

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