☆消えた校名放浪企~2回だけの夏の予選~

千葉県高校野球連盟の資料をよ~くみていたら、1949年(昭和24年)に新加盟、2年後の1951年(昭和26年)に離脱している、東京電波工芸という学校が目に留まった。


 


 


東京電波工芸の変遷をたどると、やや複雑である。
前身である東京高等工芸学校は、工業製品を美しく、かつ機能的に創造する技術を学ぶ高等教育機関として、1921年(大正10年)12月に東京の芝浦に創立。
工芸図案、工芸彫刻、金属工芸、精密機械、木材工芸、印刷工芸、写真の7学科があり、今日の工業デザイン思想の基礎となる科目が創設されたようだ。
東京高等工芸学校といえば、わが国ラジオ放送発祥の地でもある。1925年(大正14年)3月22日には、その図書室から日本で最初のラジオ電波が送り出され、日本放送協会が当地に「放送記念碑」を建立している。
戦時下の1944年(昭和19年)3月に東京工業専門学校と改称された。
1945年(昭和20年)5月の空襲により、校舎、工場等が灰塵に帰したため、同年10月に学校当局は当地での再建を断念、千葉県松戸市の旧陸軍工兵学校跡地に移転した。
1949年(昭和24年)の学制改革により新制大学の千葉大学工芸学部が発足、東京工業専門学校は千葉大工芸学部の母体として包括され、千葉大学東京工業専門学校と改称された。
1951年(昭和26年)に千葉大学東京工業専門学校は廃止され、千葉大学工学部に改組された。


 


 


本題の東京電波工芸だか、1943年(昭和18年)10月、芝浦の東京高等工芸学校に創設された電気通信専修科が起源とされている。
1944年(昭和19年)4月に東京工業専門学校附属電波技術専修学校と改称。
1945年(昭和20年)4月に東京工業専門学校附属電波工業学校と改称。
1949年(昭和24年)5月、移転先の千葉で千葉大学東京工業専門学校附属電波工芸高等学校と改称、この年に千葉県高校野球連盟に加盟した。
しかし、1951年(昭和26年)千葉大学東京工業専門学校の廃止の際、1886年(明治19年)創立で別な歴史を歩んでいた千葉大学東京工業専門学校附属工芸高等学校と共に東京工業大学へ移管、合併され、再び芝浦の地で東京工業大学附属工業高等学校(現・東京工業大学附属科学技術高等学校)として生まれ変わり、東京大会で甲子園を目指すこととなった。


 


ところで、東京電波工芸の夏の千葉大会の戦績はどうだったのだろうか?


初参加の1949年(昭和24年)は、ブロック予選(1948年・1949年のみ採用)で市川工業と千葉商業に連敗し県大会進出を逃し、厳しい船出となった。
この年の千葉大会優勝校は佐原高校、南関東大会(千葉・埼玉)には、佐原高校、成田高校、東葛飾高校、千葉高校が出場した。


1950年(昭和25年)は、ブロック予選は行わず全参加校が県大会を戦った。初戦の相手は、甲子園出場経験を持つ強豪・千葉関東高校(現・千葉敬愛)であったが、6-4で見事に夏の県大会初勝利を飾った。
続く2回戦は、前年の優勝校・佐原一高(現・佐原)であったが、32-2(7回コールド)と記録的な大敗を喫した。
この年の千葉大会優勝校は成田高校、南関東大会には、成田高校、千葉商業、千葉一高(現・県立千葉)、安房一高(現・安房)が出場した。
この試合を最後に、千葉大会から東京電波工芸の校名が消えたのだ。


 



芝浦の東京工業大学附属科学技術高校校舎の横に「放送記念碑」が建っている。
ラジオの甲子園実況放送で、この校名が聞こえる日は来るのだろうか?


 


 


以上です。

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