☆1月8日 きょうのお城


昨日、噂のケンミンSHOWを見ていて思いついたネタです。

第一回全国中等学校優勝野球大会に出場した、秋田中学(現・秋田高校)のユニフォームの胸のマークは、久保田城の別名である矢留城の『YADOME』であった。

久保田城を築城した人物は佐竹義宣である。
慶長7年(1602年)、戦国末期の大大名であった佐竹義宣は、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康に味方しなかった理由で、常陸水戸54万5,600石から秋田への転封を命じられた。この転封は転封先の知行高が明示されないという異様な指示であった。
秋田入りした義宣はとりあえず、前領主・秋田実季の居城であった湊城に居を構えた。しかし湊城は手狭なため、翌慶長8年(1603年)に湊城より南東に約5km程離れた窪田の神明山に築城を開始する。築城場所の選定に際し、義宣と父・義重の間で意見が分かれ、義重は米の生産量が豊富な横手を勧めたらしいが、義宣は雄物川の河口や湊(土崎)が近く、所領の中央部に位置する窪田(久保田)の地に決定した。
翌慶長9年(1604年)8月には城は完成し、同年10月より久保田城を中心に町割が進められた。
江戸中期になると、久保田藩の石高は45万石にも上ったと言われている。

ここからが本題です。
義宣が秋田に転封の際、常陸国(茨城)の美人を全員秋田に連れて行ってしまったため、常陸国には美人がいなくなったようです。(逃)






以上です。

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