☆墨田公園野球場での決勝戦

明治神宮球場はプロ野球、大学野球は勿論のこと、夏の甲子園東西東京大会でも使用されている。
大正13年(1924年)8月1日に甲子園球場が竣功し、東京では早慶戦の復活や東京六大学野球連盟結成の動きがあり、外苑内に野球場の建設を要望する声が高まっていた。
大正14年1月、外苑創建の精神に抵触しない範囲で計画の一部を変更し、野球場が建設されることになり、絵画館をはじめとする外苑全体のバランスを考えて建物その他の高さは制限され、外野には芝生・植え込みを多くしスタンドも美観を損じないことを主眼に造成された。
大正14年12月、敷地造成工事に着手、翌15年1月に起工式を行い、10月22日に明治神宮球場が竣功した。
昭和16年(1941年)太平洋戦争が勃発し、明治神宮球場は東京都の貯蔵倉庫として使用され、昭和20年には空襲により格納されていた薪炭、建築資材などが数日間燃え続けた。
終戦後の昭和21年頃まで明治神宮球場は甲子園球場と同様に米軍に接収され使用できなかった。





昭和21年(1946年)といえば、夏の甲子園大会が復活した年である。
前述したように、この年の夏の東京大会はこれまでメイン会場であった明治神宮球場が使用できなかったため、隅田公園野球場、下高井戸野球場、東京帝大駒場グランド、東高師付中グランド、府中野球場で開催された。
決勝戦の舞台は隅田公園野球場であった。



決勝に進出したのは国公立の2校、私学が台頭していた東京大会では史上初となる快挙であった。
その2校は、東高師付中(筑波大付属)と都一中(日比谷)であった。
試合は、東高師付中が都一中を3-2で破り初の全国の切符を手にした。
一方、都一中はあと一歩のところで全国大会の切符を逃したものの、都立勢初となる決勝進出を成し遂げたのである。




日比谷高校は日本の中枢機関である国会議事堂の近くにあり、1878年(明治11年)に東京府第一中学として創立された歴史ある学校で、過去においては東大合格者数日本一も誇っていた。
野球部創部は1899年(明治32年)ともいわれており、こちらも都内屈指の伝統を有している。
夏の甲子園大会予選には、1936年(昭和11年)第22回大会東京予選に初参加し、一次予選1回戦で高輪商を18-8、一次予選2回戦では東京工を5-2、二次予選1回戦では成城中を13-1、二次予選2回戦では惜しくも日大三中に7-8で惜敗したものの、初参加ながら見事にベスト16進出を成し遂げた。
夏の予選通算成績は81勝73敗1分、準優勝1回、4強2回、8強4回の成績である。
都立勢初の決勝進出となった1946年(昭和21年)第28回大会予選の戦績は、1回戦で荏原中(日体荏原)を12-8、2回戦で名教中(現在は東海大浦安)を3-0、3回戦で東京中(東京)を18-0、準々決勝で都五中(小石川)を6-0、準決勝では強豪校の慶應普通部(慶應)を14-4と圧倒した。




これまでに甲子園出場経験を持つ都立高校は、城東(2回)、国立(1回)、雪谷(1回)の3校である。
夏の甲子園大会東京(東西)予選の決勝に進出したが、あと一歩で甲子園を逃した都立高校は、東大和(2回)、小山台(1回)、そして日比谷(1回)の3校だけである。
6月下旬には早くも夏の甲子園大会予選の組み合わせが決まります。
今年は都立勢の活躍はあるのでしょうか。



長い高校野球の歴史において、全国で公立校にとってこれ程までに甲子園出場が遠い地区は東京だけではないでしょうか。
一方、全国で唯一公立高校しか甲子園に出場していない県もありますが、どこだか分かるかしら?(´・ω・`)


 


 


以上です。











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