☆夏の甲子園に一番近い予選皆勤校~大社高校~

山陰に野球が伝えられたのは、わが国にはじめて野球が紹介されてから20年を経た明治26年ごろのことである。当時、第三高等学校(京大の前身)の岸崎昌、志立悌之助、高橋慶太郎らが野球を覚え、夏の休暇に帰省して、母校の第一中学(松江北)の寄宿舎生に教えたことに始まったといわれている。

千鳥城二の丸練兵場で、棒切れと丸いゴム玉によって始められた野球も、明治31年になってようやく組織的なものに成長した。この年、西に第一中学、東に鳥取中学(鳥取西)が時を同じくして野球部を創設した。前者が島根師範、後者が鳥取師範を相手に最初の一戦を交え、ともに師範を破って野球史の一頁に勝利を飾っている。
この第一中学と鳥取中学は、明治33年8月、千鳥城二の丸練兵場で最初の試合を行った。鳥取中学は三十里の道を炎天下に徒歩で通した疲れに加え生卵と氷水を飲んで病人が続出し、結局、23 - 4 の大敗に終わった。当時、松江市民の熱狂振りは大変なものであったが、山陰新聞社は銀牌を勝者に贈ることを社告し、一層その熱をあおったのである。
第一中学の野球部創設が刺激となって、簸川(ひかわ)中学(簸川中学→第三中学→杵築中学→大社中学→大社高校と改称)でも野球が行われるようになった。明治32年ごろのことと考えられる。このころはまだ野球部が組織された訳ではなく愛好者が集まってベースボールを楽しんでいた程度である。
杵築の地では出雲大社神楽殿横の広場で野球が行われ、この広場が杵築での野球の始まりの場所といわれており、ここで野球を行った人々の多くが杵築中学の野球部の選手となっている。

 

~大社高校野球部史より引用~

 

 

山陰地区は明治時代の末期からすでに山陰大会が開催されるほど野球が盛んで、当時から地元の中等学校野球への関心度は高かった。

第1回大会の代表校枠は全国で10地区(東北、関東、東海、京津、兵庫、関西、山陰、山陽、四国、九州)。関東、関西でも1代表枠だったのに鳥取と島根の2県で1代表というのも野球熱によるところが大きかったと思われる。

第1回大会の予選に島根からは杵築中、松江中、鳥取からは鳥取中、米子中(米子東)、倉吉中(倉吉東)、鳥取師範が参加し、鳥取中が代表となった。その後、大社、松江北、鳥取西、米子東は予選に1度も欠かすことなく参加し続けている。

大社は、第3回大会に山陰代表として初出場、ベスト4に進出した。山陰代表は第1回大会から第10回大会までの10年間(第4回大会は米騒動で中止)で、ベスト4進出が5回、ベスト8進出が3回と全国上位の実力を誇っていた。

 

来春のセンバツ大会には同じ山陰の予選皆勤校である米子東高校の出場がほぼ当確となった。

現在、全国の予選皆勤15校の中で夏の全国大会に一番近いのは大社高校といえよう。

 

伝統ある大社高校の甲子園復活に期待したい。

 

 

 

 

 

以上です。

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