☆グランド坂から戸塚球場跡地へ

東京の西早稲田には「グランド坂」という名将、失礼、名称が残っている。

かつてあった戸塚球場から、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることから、グランド坂と呼ばれるようになった。

「無縁坂」「硝子坂」「無言坂」「桜坂」「グランド坂」は日本五大名坂と称されている。

(やや嘘)

今では、そのような学生達の響き声など聞こえない静かな通りになっているが、当時の様子を知る人には、思いで深く懐かしい坂であろう。 

 

 

 

 

グランド坂の中間に早稲田大学総合学術情報センターがあり、その一角に二つの胸像と碑がたたずんでいる。早大野球部初代部長の安部磯雄氏と早大野球部を長きにわたって指導した飛田穂洲氏である。安部氏の胸像の横にある碑は、次のような書き出しになっている。

「ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグランドである。」

 

 

明治時代後半、学生野球熱が高まる中、1901年(明治34年)に早稲田大学野球部が創部され、翌1902年10月に戸塚球場が開設された。

当時は日本の野球草創期でプロ野球もなく、大学野球が人気を集めていた頃であり、かつ本格的な野球場が少ないこともあって、慶應義塾大学の三田綱町球場とともに東京の代表的な野球場であった。

 

1908年(明治41年)11月22日には、アメリカ大リーグ選抜チームと早大野球部による国際親善試合が開催された。この時に大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行い、早大主将を相手に一球を投じ、その球を空振りしたことが現在に伝わる始球式の形になったとされている。

 

1915年(大正4年)3月27日には、第1回全国中等学校優勝野球大会の東京予選(関東他県の日程調整がつかず、都下中学野球優勝戦を予選とみなした)が開催された。

 

1925年(大正14年)10月19日には、応援問題で中止されて以来、実に19年ぶりの早慶戦が開催された。

 

1933年(昭和8年)7月には、早大創立50周年記念事業として日本で初めて照明設備を設置した。

 

1936年(昭和11年)7月1日には、日本最初のプロ野球リーグの第一戦、巨人軍対名古屋金鯱軍の試合が開催された。

 

そして1987年(昭和62年)11月22日、この球場最後の日。全早慶戦が催され、野球場としての歴史に幕が下りた後、グラウンドにはかつての選手たちの土を集める姿があった。

それは85年間、日本野球の発展を見つめ続け、野球に青春を捧げた選手たちをやさしく育んだ土であった。

 

 

 

 

 

以上です。

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