ウルトラマンと円谷幸吉の町・須賀川。

  • tokkey
    2015年05月25日 22:18 visibility1683

会津若松城へ行った翌日須賀川へ寄ってみた。



































 須賀川駅で降りてすぐ目に付いたのがウルトラマンのポスター。



































 「特撮の神様」円谷英二の出身地で、1901年(明治34年)に須賀川で生まれたとの事。



































 駅構内の初代ウルトラマン像。



































 何でも須賀川市とM78星雲・光の国は2013年5月5日に姉妹都市提携を締結したそうで(笑)、



































 これがその記念に建てられたモニュメント。妙にガチムチw。



































 M78星雲との姉妹都市提携を記念して、須賀川市内の6郵便局で2013年11月1日(金)より各郵便局で使用が開始されたウルトラヒーロー風景印。



































 ウルトラマンゼロは“セブンの息子”という設定で、「新ウルトラマン列伝」の主人公。(テレビ東京で毎週火曜日18:00~18:30放映中)

 福島空港でもウルトラ関連のイベントをやっていた様で、時間があれば立ち寄ってみたかった。



































 須賀川アリーナ横の「円谷幸吉メモリアルホール」。



































円谷幸吉:昭和時代後期の陸上競技選手。
昭和15年(1940年)5月13日生まれ。自衛隊に入り、昭和39年(1964年)東京五輪では1万m6位,マラソンで銅メダルに輝く。次回のメキシコ五輪での金メダルを期待されたが、昭和43年(1968年)1月9日自殺した。27歳。福島県出身。須賀川高卒。
【格言など】幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません(遺書)(日本人名大辞典+Plusより)

 「円谷」という姓は須賀川に多いらしくて、地元では“つぶらや”ではなく“つむらや”と読むそうだ。



































 パンフレット。
 銅メダル獲得後、国立競技場の大観衆に向かって少し前屈みに手を振る円谷幸吉。既にこの頃から腰を痛めていたと思われる。



































 実家には幸吉の没後家族の手で開設された「円谷幸吉記念館」があったが遺族の高齢化により閉館。須賀川市がこれを引き継ぎ平成19年(2007年)1月7日より「円谷幸吉メモリアルホール」として正式に公開された。



































 館内には東京オリンピックのポスターや円谷幸吉の全データ、使用していたシューズや練習着、オリンピック時に着用したブレザースーツにジャージ、DVD&ラジオ音声による当時の実況中継、金メダリスト“裸足の王者”アベベ・ビキラの写真、解体まで使われていた国立競技場の椅子等が展示されていた。

































 
































 




































 プロフィールによると円谷は163cm、54kgで思っていたより小柄。
 こんな体格でよく外国人選手と互角以上に渡り合えたものよ。



































 元々はトラック&駅伝出身の選手で、マラソンを始めて僅か七ヶ月でオリンピック代表に選ばれる。
 当時は入賞の本命は毎日マラソンで二度優勝している君原健二か世界記録を出した事のある寺沢徹で、円谷はダークホース的存在だったのが予想に反しての銅メダル。
 しかも東京オリンピックで日本陸上界が獲得した唯一のメダルだった。



































 「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通し、迫ってくるイギリスのベイジル・ヒートリーに抜かれての3位だったが、翌日防衛庁長官から第一級防衛功労章が贈られ一夜にして“英雄”となった。



































 しかしその後故障、婚約の破談、よき理解者であり協力者であったコーチの理不尽な転勤、金メダルのプレッシャー等から昭和43年(1968年)自衛隊体育学校宿舎の自室にて剃刀で頚動脈を切って自ら命を絶ってしまう。


































 
 沢木耕太郎著「破れざる者たち」(文春文庫刊)所収「長距離ランナーの遺書」によると、

君原健二は東京オリンピックで国民の過大な期待に圧し潰されて8位と敗れると、すぐに八幡製鉄の陸上部に退部届けを出した。
「死への逃避も頭にちらつか」ないわけではなかった、という。
マラソンにはふっつりと出なくなった。失意の時期に、円谷と同じようにひとりの女性に心を占領されるようになる。(中略)

君原が円谷と違っていたのは、最後まで自分の決意を大事にしたことだ。君原は我の強い男だった。彼は結婚し、再びマラソン界で活躍しはじめる。
メキシコ大会ではマモ・ウォルデについで銀メダル、ミュンヘン大会にも出場し、5位に入賞した。3回のオリンピックに出場し、すべて10位以内という素晴らしい記録を作った。
《私の競技生活も独身だったら可能だったかどうかわからない》

 何の番組だったか忘れたが「友に捧げる銀メダル」というサブタイトルで、同学年だった円谷と君原はライバルであると同時に仲も良く、メキシコオリンピックで君原は2位で競技場に入って来たが普段はやらない「振り返り」をして後続の選手が迫って来ているのを確認、スパートをかけて突き放し見事銀メダルに輝いた。
 君原曰く「あの時普段はやらない振り返り確認をしたのは円谷の陰の声が振り返らせたのかも知れない」。

 どこまでも対照的なメダリスト。



































 物心ついた頃、未だに現役で大きな大会で走っている君原をTVで見た記憶がある。
 既に全盛期は過ぎていたがそれでも15位で、黒縁の丸眼鏡をかけて颯爽と走る姿が印象的だった。

 円谷の業績を偲んで毎年須賀川で開催される「円谷幸吉メモリアルマラソン」(コースはハーフ・10km・5km・3km・2km・1.4km)に君原も毎回参加していて、走った後は円谷の墓参りを欠かさないとか。



































 君原健二は70歳は越えている筈だが今でも年に一回はフルマラソンを走るという。

 館内には円谷が所属していた「自衛隊体育学校」入校案内のパンフレットも置いてあって、ただその採用基準が『全日本選手権大会で○位以内』とある程度の成績を収めた者でなければ入れない様になっている。



































 「レジェンド自衛隊体育学校」として円谷幸吉や重量挙げで二連覇(東京、メキシコ)を果たした三宅義信を始めオリンピックに出場した選手達の名前が連ねてあったが、民間企業に所属するのとどっちが良いのかね。

 実業団だとスポーツで成功すれば実入りはデカいと思うが。CMやTV番組、賞金レースに出たりとか。

 自衛隊体育学校に入れば「体育特殊技能者」「特別職国家公務員」として終生身分は保証されるし、怪我で駄目になったり引退しても生活の心配は無いと思うけど。

 価値観と生き方の問題かな。

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