消えたグラウンド?〜道後、屋島
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仲本
2014年04月29日 11:40 visibility2045
野球拳ついでに連休なのでいろいろ調べた。
(今回が最後なので我慢して下さい)
伊予鉄道の社史に野球部のことが記載されていないかとページを繰ってみたが、それらしい記録は見当たらなかった。代わりに、伊予鉄道はかつて松山郊外にグラウンドを作っていたことがわかった。概要は当時の述懐から想像していただくことにしよう。
『このグラウンドは道後名勝の一つとなって、来遊する人々の散策するところとなり…(中略)…東洋広しといえども、野球、陸上、庭球、水泳を1カ所において同時に行い得るもの果たしていずれにありや』
道後グラウンドと呼ばれたこの施設は収容人員19,000人の野球場、トラック一周200メートル・収容人員13,000人の競技場、飛び込み台つきの50メートルプール、庭球場および児童遊技場などがあったというからかなりのものだ。大正13年秋に完成した。
当時の所在地は「松山市外道後祝谷」。松山には今でも祝谷という地名が残っているが、地図上では跡地の確証がもてなかった。なんでも坊っちゃんスタジアムには昔の道後球場の写真があるらしい。
野球拳誕生のきっかけとなった試合が行われた香川の屋島グラウンド。こちらも大正13年に開場した。そもそも伊予鉄野球部はこのグラウンドの開場記念に招待されたのだという。
中等学校野球では、道後が昭和6年から、屋島は昭和13年から、戦争で中断となる前の昭和15年まで、それぞれ夏の予選会場として使われた記録が残っている。なお、参加校の増加により、四国大会は昭和7年から各県での一次予選が行われるようになっていた。
屋島グラウンドのほうは戦後に国体開催のために陸上競技場として改装された。現在は老朽化のため閉場し、再びの改装を待っているそうだ。
(参考:『伊予鉄道百年史』伊予鉄道)
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