「弱小チーム」のベスト16〜昭和63年春・倉吉東
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仲本
2010年06月26日 09:50 visibility8750
雨で放浪もままならず、ここは昔話をひとつ。
”甲子園の空、全国の顔を見た”――
手元に古い新聞の切り抜きが残っていた。昭和63年、初出場の倉吉東・河野投手の試合後のインタビュー記事だ。関東代表・桐蔭学園に敗れた後のことである。
そもそもこのチーム、前評判はあまり高くなかった。選考の重要資料となる秋の中国大会はベスト4入りしたが、中国大会優勝の広島工業に大差で敗れた。しかし選考では中国地区の出場枠は「4」と決まり、悲願の甲子園初出場をつかむ。一方で、同じベスト4の島根・江の川が接戦惜敗にもかかわらず選考から外れており、一部では疑問の声もあがったそうだ。
部員は総勢16人。当時は甲子園大会のベンチ入りが15人だったから、1名だけベンチ入りから外れるという小所帯だ。主戦投手は身長170cmに満たない変則技巧派。チーム打率も出場校の中では下のほうだったと思う。一度くらいは勝たせてやりたいが(無理かなあ)、そんな印象のチームだった。
甲子園での初戦は市立船橋戦。1回裏、倉吉東はエラーも絡んで一挙6点。2回の表に3点を返されるという波乱の展開になったが、河野投手がその後踏ん張ってこの試合をものにする。ダークホースとも見られた市立船橋は失策6に四死球7と普段の実力が発揮できず、大会初日の波乱と言われた。2回戦は打力が売り物という東海大山形と対戦。しかしお互いに決定打が出ず0−0のまま迎えた9回裏。倉吉東に待望のタイムリーが出てサヨナラ勝ちを収める。
3回戦の相手は桐蔭学園。さすがに運もここまでか、と思ったが、点を取られた次の回にすかさず追いつくというしぶとい試合展開で7回まで2−2の同点。8回・9回に1点ずつを失い、4−2で敗れたが、全国一の激戦区・神奈川の強豪相手に山陰の小チームが大健闘と評された。
で、試合後のインタビューだ。相手は甲子園常連校、君の配球はすべて読まれていたそうだよ、と水を向けた記者に、ニコニコとこう答えたという。(※注:「」コメントはすべて記事引用です)
「分かっていました。前半は外角を右へ、後半は細かくいろいろと。でも、いいんです。気負わない、いつもの野球で僕らは勝ってきました。だから、いつもの配球を通していきました」
あわよくば勝利の目も出てきた終盤8回の守り。1死2塁から4番打者にレフトへ飛球を打たれる。追いつくかとも見えた当たりだったが、飛球を追った左翼手がバランスを崩して転倒。結局これが決勝のタイムリー三塁打になる。
「あれねえ。あいつ、練習中によくやるんですよ。思わず笑ってしまいました」、
甲子園で3試合。印象は?
「一番弱いチームの一番頼りないエースだからといつも思いながら投げたから、すごく気持ちが楽でした」「鳥取の空と顔しか知らなかった僕らが、甲子園の空と全国の顔を見せてもらいました。都会チームのバッティングはすごいなあと思った」
なんかみんなで頑張って部活やってたら甲子園に出られました。2つも勝っちゃいましたがそれはおまけです、ってなノリである。ここまで開き直ってけろっとしたコメントはその後もあまり記憶にない。
気の毒といえば気の毒だったのが、この大会、60回の記念大会で、出場チームが34校と通常よりも2校多かった。32校のトーナメントなら2つ勝ったらベスト8なのだが、倉吉東は2試合しかない「1回戦(34校→32校)」のくじを引いてしまったので、2つ勝ってもベスト16。「3回戦」で敗れたという記録が残っている。夏までにタテの変化球を覚える、と意気込んだ河野投手だったが、この年の夏は地方大会で敗れた。その後、倉吉東高校は2回甲子園にやってきて、いずれも初戦で涙をのんでいる。前回の日記で紹介したクリーム色にエンジのユニフォームは初出場当時から変わらない。
ところで、この年わたしは確かまだ中学生だったはず。はるか遠いとはいえ頑張れば甲子園だって目指せる年齢だったろうに、こういう記事を切り抜いてとっておく老成ぶりってどうなのよ…。
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