背番号を自分の番号にすることの重要性

自チームの背番号の付け方は入部した順番で背番号を選ぶ権利がある。1日でも早く入部すれば、その人が選ぶまでは、次の日に入部を決めた人は、1日前に入部を決めた人が背番号を決めるまで待つと言うシステムにしている。だから、空き番号の中で「これを」と言う「選択権」を私のチームメンバーは持っていたわけで、持っていなかったのは私だけだった。私の背番号は「30」である。この番号を自分で決めたのではなく、創部当初、チームは連盟もしくは私設リーグに加盟するかもしれないので、監督である私の番号に対して「30」にしておけば、どちらに転がっても背番号変更をする必要が無いと言う理由で「30」を背中に背負わされたというのが、本当のところだ。私のユニフォームの背番号は、小学生の少年野球チームを自分で作った時、このチームの名前が「キングライオンズ」で、そのチームの中で私は投手を志望していたので、当時2年生だった私の最初につけた背番号が「18」だった。これは昭和四十四年全国高等学校野球選手権大会の決勝戦での青森県立三沢高校対愛媛県立松山商業の18回延長引き分け試合の時の三沢高校のエース太田幸司投手が近鉄バファローズにドラ1で入団が決まった時にもらった番号が背番号18だったので、あの感動のまま、背番号も18にさせていただいたのだった。

 

その次の番号はリトルリーグのチームで、そのチームに試験で合格して入部を許された時にもらった番号が「51」だった。この番号をもらった時に「なんだ。チームは僕に期待してないってことの現れだな。これは。」と思ったのだが、今じゃあ、この「51」に憧れる選手たちの多いこと。イチロー選手の影響はものすごく大きい。だが、この当時の小学生は王貞治さんの「1」、長嶋茂雄さんの「3」があこがれの番号だったので「51」なんて、それこそ「チーム自体が期待感の薄い」という証拠の番号であったことは間違いない。

 

高校でもらったのはセカンドの番号。4であるが、それほど大した野球をやってなかったため、試合もいつも出ると負けのチームで、あまり楽しい思いが無かった記憶だけがある。

 

そして、草野球の「プレイする野球の世界」に戻るまで27年以上のユニフォームを着るブランクがあり、私にとっておそらく人生最後の背番号になる「30」をつけたのは、自分でもすごく運命的な出会いを感じるわけで、プレイングマネージャーとしての背番号であり、自分が選んでない背番号を今人生の中の「野球人生上」一番長くつけている番号になっている。私は、この番号をもっともっと自分の物とするために長く野球をやり続けて行こうと思っている。30番をつけていれば現役引退をしても「監督業専念」にもピッタリの番号であるし、やはり13年もつけていれば愛着が生まれると言うものだ。私は、この番号の似合う選手であり監督になっていきたい。そう願って14年目のシーズンに突入していきたい。

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