読んでみた~最弱球団 高橋ユニオンズ青春記

  • 仲本
    2016年11月26日 22:31 visibility810
もともと別の本を読んでいて「高橋ユニオンズ」のちょっとした記述が目に入り、市の図書館の書架にあったこの本を手に取ってみた。2011年刊行と少し時間は経っているが取り上げることにする。プロ野球ネタはあまり得意ではないが…、

戦後復活したプロ野球は昭和24年オフシーズンにセントラル・パシフィックの2リーグに分裂。プロ野球はその後数年間、毎年のようにチーム再編が行われる混沌とした状況だった。決然と袂を分かったパ・リーグ7球団だったが、「人気のセ」への対抗策はなかなか浮上しなかった。7球団では運営になにかと不都合がある。戦力充実の6球団で再出発か。セントラルのように。

いや、それでは縮小均衡だ。1球団増やして8球団で覇を競うのだ。就任したばかりのパ・リーグ総裁は大風呂敷で「ラッパ」の異名をとった永田雅一。高橋ユニオンズは第8の球団として、昭和29年からプロ野球パ・リーグに加入した。

ユニオンズのオーナーは高橋龍太郎。野球どころ愛媛の出身で、東京六大学野球のファンだった。戦前も別のプロ野球球団経営にかかわった経験があった。担ぎ出す側としても最後の切り札だった。日本のビール王と言われた財界人だが、オーナー就任当時78歳と実業の第一線からは退いていた。チーム名に冠した「高橋」は経営の主体が企業ではなく個人に帰することの表れだった。

新球団に対する支援は惜しまないと言った永田だが、一線級をライバルに渡すチームなどあるはずもない。集まった選手は峠を越えた選手やチャンスを得られない選手ばかりだった。シーズン開幕前の展望では最下位必至と書かれる始末。チームスローガンは「気品と闘志」だった。意地の悪い見方をすれば「勝利」と大書して掲げられないともいえる。

野球を愛する老オーナーと他球団から放出された選手たち。脚本家ならこんな陳腐なもの書けるか、と言いたいところだが、それが実話の面白いところだ。そして、往々にして現実は脚本のようにはうまく運ばない。弱かった。これでは熱心なファンもつかなかったろう。

弱小第8球団がリーグの救世主たりえないことはシーズンを重ねるたびにはっきりしていた。ユニオンズ結成から3年目のシーズンオフ、オーナー会議ではまたしてもチーム再編の話題一色となった。会議はもつれ、そして終わった。

会議上や終了後、そしてチーム解散が決まり選手を送り出すときの高橋オーナーの言動は印象的だ。今どきのどこぞのオーナーにも聞かせてやりたい。

さて、タイトルに「青春記」とある。少ないながらも若い選手もユニオンズに合流した。弱小だろうがプロである。プロで通用するかどうか、このチームに賭けた。高橋オーナーはチームを維持するために私財を投じて支えた。選手の活躍を楽しみにしていた。戦後プロ野球の機構自体、まだまだ未熟で定まらなかった。わずか3年しか存在しなかった球団の歩みは、振り返ってみればほろ苦く不名誉で、しかしささやかな喜びと挑戦がある日々だった。青春と呼ぶにふさわしい。

(参考:長谷川晶一『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』白夜書房/2011)
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