甲斐路に栄える狭南高校に栄冠あれ!

今日もここ常陸の国、水府地区は1日雨模様です。

まあ良いけど別に。

 

今デジタルクリーニングを行っております。(BRレコーダーHDD→BRディスクへの移行)

長時間録画したのをディスクへコンパクトにダビングする方法が今までわからなくて昨日画像をレベルを落とせば

簡単に録画できることを知りました。

意外にこのような操作に弱い篠山です。

 

さて時代が昭和から平成、平成から令和に移ろうとも、甲子園へ出場したという栄冠は決して薄れることはありません。

 

今回は2020年4月より増穂商業、市川高校とともに併合される狭南高校に歴史と栄冠を此処に報告させて頂くとともに、いつまでも高校野球ファンの心の中に記憶として残ってほしいと思いKey Bordを打っております。

 

以前20年前浜松市にいたころ山梨県の身延線に西花輪迄仕事でちょくちょく行っており、その時も「特急富士川」の窓から久那土駅を少し過ぎたところの線路際に山梨県立狭南高校があります。

 

「此処があの狭南高校か?、すげ~な」と思って車窓から観ていたものです。

 

狭南高校は山梨県南巨摩郡身延町三沢2417にある。

近くには信仰の山そしてあがめられている身延山がとか、急流富士川が流れており風光明媚なところにある。

人口の過疎化が進んでいる地域から何故甲子園出場校が出るのであろうか不思議であったが、狭南高校が甲子園に出場したのは昭和47年夏と昭和58年春と時代はかなり遡るのであるからあながち納得がゆかないわけでもない。

 

大正12年組合立狭南農工学校として創立。昭和2年県立に移管し23年の学制改革で県立狭南南農工工校となる。

32年狭南高校と改称。

 

野球部は昭和28年に創部。

成島智広監督が就任してから強くなり、43年春の県大会で大森市三投手がのヒットノーランを達成して県大会を制した。

しかし夏の大会では夏の大会直前盲腸で倒れ一塁で出場も準々決勝で敗退した。

 

第54回大会の昭和47年夏の大会では深沢恵雄(日本楽器→阪神→ロッテ)熊谷真二の2年生バッテリーで西関東大会に進出し、代表決定戦で熊谷商業を延長10回破って甲子園初出場を果たす。

 

また11年後の昭和58年の第55回の春大会にも、前年度の第35回秋季関東大会で一回戦栃木商業を3対2、準々決勝で習志野高校を8対1で破った。準決勝では桐蔭学園に1対2と敗れたがベスト4に残り評価され選抜初出場を達成した。

 

しかしながら甲子園での成績は

第54回の選手権大会は準優勝した柳井高校に深沢投手が4安打に抑えながら3点を奪われ、味方も6安打放つが繋がらず0対3と初戦敗退。

 

昭和58年の55回の春の選抜もエース伊藤史生が大社高校(島根県)を4安打に抑えたが9回2点を奪われ0対2と初戦敗退している。

 

昭和58年第65回夏の大会への期待も膨らんだが、準決勝で吉田高校の田辺徳雄に3ランを打たれて0対7でコールド負けしている。

 

狭南高校今年度が最後の夏。

最後の夏は部員が3名しかおらず、残念ながら、夏の山梨県大会は不参加となってしまった。

 

山梨県の山間高校の狭南高校、来年で校名は消えてしまうが、私はこのような高校があり甲子園で校歌を歌うことはできなかったが、甲子園で溌剌としたプレーで観客を沸かせ、地元を勇気づけたこの高校を生涯絶対忘れないであろう。

 

(第54回大会のアサヒグラフです)

 

 

 

 

                                  おわり

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