
福島県立保原高校あの輝ける栄冠
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篠山鳳明
2025年11月11日 07:26 visibility76
福島県は東北地方の南部に位置し、東西に長い県で有る。 その事は福島県を天気予報等で3つの地域に分けて行うことでもわかる。 浜通り、中通り、会津地方と分けて各地の天気が放映される。他県でも地域に分けて天気予報が放映されるが東(浜通り)、真中(中通り)、西(会津)と分かれているのは全国でも珍しい。
高校野球の勢力図をこの3つの地域で見てみると。 浜通りはやはり磐城高校と今はなき双葉高校ではないだろうか? 中通りは福島商業、日大東北、安積商業そして今や絶対王者の聖光学院がここに居る。 会津地方は他の二地域とは差があり会津高校が昭和30年代一度選抜大会に出場している。 そして浜通りと中通りの中間の山間部に位置しているのが学法石川高校で有る。
商業、行政の県庁所在地の福島市の北東に位置し隣接し、福島市へのベットタウンと化しているのが伊達市で有る。何処にでもある地方の衛星都市、そこに今回紹介したい保原高校(ほばら)が有った。
伊達市は
おおむね西端部を阿武隈川に福島盆地の一部。東端部を阿武隈高地の順に、高低差がある盆地特有の地形である。 名産のあんぽ柿や、全国有数の収穫量があるモモ(桃)の産地である。
2006年(平成18年)1月1日 伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市となった。
保原高校は
1922年(大正11年)に旧制の福島県立保原中学校として開校。全日制課程で普通科と商業科設置。通称は「保高(ほこう)」または「保原高(ほばらこう)」。
1922年(大正11年)學校創立とと同時に野球部も発足、福島県では古豪の部類に入る。
チーム創設当初は部員不足に悩まされ成績も芳しくなかったが、大正15年初めて県大会を勝ち上がり東北大会へ進出、一回戦で東北学院に大差で敗れた。
1936年(昭和11年)も東北大会に進出したが山形中學に、戦後は1962年(昭和37年)にも東北大会に進出したが、気仙沼高校の熊谷猛郎投手の前に0-1と敗れて甲子園出場を逃している。
甲子園に出場するところに名監督有りと言われる様に保原高校にも和田正と言う監督がいた。
先見の妙に優れて、基本に忠実で努力を惜しまない指導、発想がひらめきによるところも大きく、三原マジックになぞられ地元では和田マジックと呼ばれた。
しかし和田は教育者としても優れており県教育委員会の課長に昇格した。
代わって監督に就いたのOB青年監督狗飼監督で有る。
狗飼監督は丁寧に実直に指導に邁進した。
しかし最初は和田監督と比較され、辛かった時期もあったと思うが、その後の昭和40年大輪の華が咲くので有る。
1965年(昭和40年)第47回夏の甲子園大会の福島県大会そしてと東北大会を勝ち上がるので有る。
【福島県大会】
安達高校3-1(県北地区)
若松一高校7-0
双葉高校1-0(延長11回)
東北工業6-0
田村高校1-0(延長18回引分け再試合)
【東北大会】
古川工業6-1
磐城高校5-4(決勝戦)と勝ち念願の甲子園初出場を決めた。
やはり主戦の長身180センチ岡正光投手の力投が光った。そしてしぶとさを身に着けた事である。田村高校の引分け再試合で勝利したことが、彼等の自信となった。
晴れて保原高校は第47回甲子園大会へ出場を決めた保原高校は二回戦から登場した。
相手は九州の優勝候補の一角の宮崎県の
高鍋高校。
プロ注目の牧憲二郎投手がおり、出場も4回目と経験値も充分にある。
試合は5回終わり0-0の同点であったが6回裏均衡が崩れ高鍋打線が疲れの見えた岡に連打を浴びせ4点、8回にもダメ押しの2点を取られて敗れた。
保原打線は高鍋牧投手に1安打で11三振で三塁も踏めなく完敗した。
1965年(昭和40年)第47回大会と言えば三池工業が銚子商業を決勝戦で下だし、アルプススタンドが炭坑節で盛り上がり、沈んでいた炭鉱の町に一隅の光を当てた時代だ。
福島県立保原高校
2024年に梁川高校と統合され伊達高校になり保原高校の名前自体は消滅したが、あの青年監督の狗飼監督とサウスポーエース岡投手(大洋ドラフト1位)、関根捕手、3塁を守った主将の鈴木選手等の活躍が瞼に浮かぶ。
また伊達藩の北畠顕家の家紋で有る三本の笹りんどうの校章が忘れられない。
遠き昔の思い出に浸ってみた。
☆1965年(昭和40年)この年、明けて直ぐ学生野球の父と呼ばれる飛田穂洲翁が亡くなられる。
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