消えた球場(32) 大須球場

  • Mr.black
    2014年06月05日 11:02 visibility4485

名古屋市中区に「大須観音」があります。

地下鉄鶴舞(つるまい)線の「大須観音駅」を上がってすぐのところにある大きな観音寺です。
 




この大須観音から南に徒歩2~3分の場所にかつて「大須球場」がありました。
建設されたのは1947年(昭和22年)の冬。実質翌年から稼働した野球場です。
 
元々この場所には本願寺の名古屋別院と大須二子山古墳があったそうです。
それが戦時中の名古屋大空襲で辺り一帯が焼け野原に。
その空き地になったところに戦後復興の目的で野球場が建設されたのです。
 
この大須球場の建設にあたり、二子山古墳が完全に破壊されるという現代では考えられないことが行われたそうです。戦後の復興が最優先でそういう文化財保護という観念は吹き飛んでいたのでしょうね。時代が時代ですから。
大須球場には県や市の支援もあったらしいのですが、基本的に複数の個人経営だったとも言われています。実態はやや不明瞭ですが。
 
球場のスペックは両翼約91m。そして外野フェンスは直線的で膨らみが無く、そのためセンターは100数mだったと言われています。なので当時の飛ばない粗悪なボールでも結構HRが飛び出すなど乱打戦が多かったようです。
グランドは全面土で芝生は無し。照明も当然無し。
スタンドは1万人収容だったということです。(木製スタンド?)
 
名古屋市内にありながら中日ドラゴンズはあまり利用しなかったようで、むしろパ・リーグの利用が多かったと伝えられています。
これは1950年の2リーグ分裂が決して和やかに進んだわけではなく、お互い遺恨があったので1948年に新設された中日球場(後のナゴヤ球場)はセ・リーグのみで使用し、同球場を使えないパ・リーグは大須球場を利用せざるを得なかったという裏事情がありました。
(なお、中日球場の完成時期は冬だったので実質の稼働は翌1949年から。)
 
 
そして大須球場では1952年(昭和27年)に世間を騒がす大きな事件が起こります。
当時の政治的・社会的な背景などが元で反体制の集団による大暴動が起こりました。その時、反体制グループが集まった場所が大須球場だったのです。ここに集結した暴徒が用意した火炎瓶を持って各地に分かれ、警察や公的な施設を襲撃。
球場にとっては大きな黒歴史を刻んでしまったわけですね。
 
これが直接の要因だったのかどうなのか・・・・・?
この年限りで大須球場は閉鎖されました。
表立っての閉鎖要因は「経営難」、「運営難」だったのですが、名古屋市内中心部に近い場所に大暴動が行われた施設がそのまま残るのは不都合があったのではないか?と個人的には考えています。
反体制派にとっては大須球場が「象徴的な存在」になり、後年再び同じことがこの場所で行われる可能性がありますからね。
野球場好きの私にとっては野球場を暴徒が徒党を組む場所に利用したというのは残念な気持ちです。
 
閉鎖された大須球場、その後どんな運命を辿ったのでしょう?
 

 


閉鎖後の土地は元の所有者である本願寺に返還され、名古屋別院が再建されました。
その一方で古墳は完全に破壊されていたので元通りにはなりませんでしたが。
 

 


また、敷地の一部は現在「名古屋スポーツセンター」になっています。
ここには通年営業のスケートリンクがあり、地元では「大須スケートリンク」と呼ばれているそうです。
 

 


このスケートリンク、伊藤みどり・浅田真央・安藤美姫・村上佳菜子(敬称略)など日本女子フィギュアスケート界のそうそうたる選手が練習していたことで有名です。
館内には一部選手のスケート靴が展示されているとのこと。今回は中には入らなかったので見ていませんが。
 

 
名古屋大空襲、打撃戦、大暴動・・・・・様々な歴史を送った旧・大須球場跡地。
今はその敷地の一角で世界を目指して技を磨く選手や無垢な幼稚園児が日々過ごしています。
(写真右奥に幼稚園あり)
 


普段は球場跡地に行くと寂しい気持ちになることが多いのですが、今回は本願寺・幼稚園・スポーツセンター周辺を徘徊しながら「これで良かったんだ。元の穏やかな土地に戻ったんだ。」と思いました。

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