消えた球場(7) 洲崎球場
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Mr.black
2009年06月23日 18:54 visibility6675
今回東京遠征するにあたり、かつて都内にあった野球場の跡地見分に行ってきました。(3箇所。)
順番がランダムなのですが整理がついたものから書いていこうと思います。
まずは洲崎球場から。
日本に野球という文化が入ってきてから以降、全国各地で野球場が造られていきました。今日まで数多くの野球場が造られ、またその一方で取り壊されて消滅していった野球場もたくさんあります。
そんな消えていった野球場の中でもひときわ異彩を放つもの、それこそが洲崎球場ではないかと思います。
この球場が造られたのは1936年(昭和11年)です。この年から始まった日本のプロ野球(当時は職業野球)。しかし最大の課題は東京都内にプロ野球公式戦が行える場所が無かったことです。
このために杉並区に「上井草球場」、そして江東区に「洲崎球場」が急遽造られていきました。
洲崎球場は様々に調べてみたところ木造スタンドで僅か3ヶ月という短期間で突貫工事で東京湾岸地域に建設されたそうです。(以下は自分が調べたものを整理してまとめたものです。誤りがあった場合はご指摘いただければ幸いです。)
都心からは市電(当時)で行き、最寄り駅からは6分程度で比較的好立地だったようです。当時プロ野球は大学のリーグ戦のように春と秋の2シーズン制で行われており、突貫工事で完成した洲崎球場は秋のリーグ戦から利用されました。その後、春と秋の優勝チーム同士で初代王者決定戦が洲崎で行われ、巨人とタイガースが対決。巨人が勝って初代王者になりました。この優勝決定戦はプロ野球史上屈指の好ゲームとも言われ、これが現在に繋がる「伝統の一戦」の始まりでもあります。つまり「伝統の一戦の発祥の地」、これが洲崎球場だったわけです。
他にプロ野球場が少なかったことと都心から比較的行きやすい場所だったので洲崎球場では多くの公式戦が行われましたが、この球場にはひとつ大きな欠点がありました。
東京湾の埋立地に造られたので海抜は僅か60cm(一説には40cmしかなかったとも言われています)、そのために満潮になると海水がグランドに入ってきて酷い時には水浸しで試合が中止になったこともあるそうです。
この球場にはこの他にも
「グランドの土を少し掘ったら貝ガラが出てきた」とか、
「木造スタンドをカニが這いずり回っていた」とか、
「すぐ隣に遊郭があったので試合の無い選手が遊郭の窓から試合を見ていた」とか現在では考えられないようなエピソードがいっぱいあります。
ただしこの遊郭の話はデタラメらしいので他のエピソードも多少は誇張があるかもしれません。
(遊郭は近くにはあったものの球場の隣ではなかったので当然窓から見るなどということは不可能だったのです。1〜2km程度は離れた場所だったようです。)
ともあれ野球場の環境としては決して良好とは言えなかった洲崎球場。
転機が訪れたのは1937年(昭和12年)の後楽園球場の完成でした。都内の中心地文京区に造られた後楽園。これが完成すると洲崎球場の試合数は激減していきました。(上井草球場も同様。)
そして洲崎球場の3年目にはついに3試合の開催にとどまり、これが事実上この野球場の最後になりました。その後この球場が一体いつ閉鎖され、取り壊されたのかは全くわかっていません。
1945年(昭和20年)の湾岸一帯の地図では既に記載が無いので戦時中の慌しさの中で取り壊されたのではないかということです。
日本プロ野球の草創期に突貫工事で彗星のように出現し、多くの伝説を残しながら事実上は僅か3年で消えていった洲崎球場。まさに幻の野球場と言ってもいいでしょう。
この洲崎球場、長い間その場所がわかっていませんでした。理由は湾岸の埋立地が激しく地形の変動を続けていったことです。
ところが最近になって江東区などが様々に検証し、「この周辺にあった」という位置の特定がなされました。場所は江東区の新砂1丁目1・2付近。周辺には運転免許試験場や日本デジタル研究所、オルガノ、などが立ち並ぶところです。
最寄り駅は地下鉄東西線の「東陽町駅」。徒歩5〜10分程度です。その道路沿いに江東区教育委員会が造った記念碑がひっそりと建っているだけです。(平成17年、と書いてありました。)
ある意味「幻の球場」にふさわしいのかもしれません。
街中にひっそりと建つ記念碑。
注意して見ないと見落とすくらいのものです。
周囲はこんな感じです。左端が記念碑。非常に小さいものです。
洲崎球場の位置図。現在の地形と当時の球場の形を合成させたもの。
初代王者に輝き記念撮影する巨人。
これが伝統の一戦の始まりです。
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- 事務局に通報しました。
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