消えた球場(8) 上井草球場
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Mr.black
2009年06月24日 14:47 visibility6065
(7)で紹介した洲崎球場と同じ年(1936年・昭和11年)に造られたのが上井草球場です。洲崎はこの年の11月に完成しましたが、上井草はそれよりも少し早い8月の完成だそうです。
当時の名称は「東京球場」。まさに東京で最初に造られたプロ野球専用の球場だったのですね。
造ったのは西武鉄道。西武はこのプロ野球草創期に「東京セネタース」という球団を設立。自チームの専用球場として自社の沿線だった上井草に野球場を建設したのです。また、当時東京の人口は都心から西へ西へと増えていったので「これからは都心から西側に人が流れていく、その流れを誘致するチャンス」とも捉えてこの球場を造ったとも言われています。
当時の上井草は畑や松・竹その他の雑木林ばかりだったそうです。
上井草球場は両翼100.6m、センターまでが118.9mだったというデータがあります。
また収容は当初29,500人。のちに拡張して45,500人というかなりの規模の野球場だったようです。完成時には落成記念として8月29〜30日に「東西対抗戦」が開催されました。参加したのは「阪急軍」、「大阪タイガース」、「大東京軍」、そして「東京セネタース」の4球団でした。
この上井草球場の当時の入場料は西武「高田馬場」から「上井草」駅の乗車賃込みで50銭でした。
この上井草も前回の洲崎と同じく1937年(昭和12年)に後楽園球場が完成するとともにその輝きは徐々に失われていきます。やがてプロ野球での試合開催数が減少し、1959年(昭和34年)に都が買収。そして1964年(昭和39年)には都心部への水の安定供給のために上水道用の貯水池が造られることになり、ついに閉鎖・取り壊しになりました。
その後1967年(昭和42年)に池の上に被せるようにして4面の野球場が造られます。草野球用の球場とはいえ再び野球場として復活した上井草。他の消えた野球場に比べると幸せな結末を迎えたのかもしれません。
さらにその後は都営から区営になり、テニスコートや体育館などが併設されて現在は総合的なスポーツセンターになっています。
区民の憩いの場として今後も栄えていって欲しいものです。
アクセスは西武新宿線「上井草駅」から南西に徒歩5分程度です。この上井草、自分は詳しくないのですが、アニメの街とも言われているようですね。駅前には「ガンダム」の像が、駅のホームには様々なアニメのポスターが貼られていました。
(一枚目の写真は現在の上井草スポーツセンターの正面入り口。ここを入って左側の廊下に球場の写真や歴史などが掲示されていますのでご興味のある方はご覧ください。)
戦後、進駐軍によって神宮球場が接収されて使用できなかった時期に上井草球場で「東京六大学」の試合が開催されていました。
(1946〜52年・昭和21〜27年の間。)
またここでは高校野球(中等学校野球)も開催されていました。まさに東京の野球を支えていた貴重な場所だったのですね。
落成記念の東西対抗戦のリーフレット。(おそらく拡大印刷してあるのでしょう。これではポスターサイズです。苦笑)
ここには参加した4球団の選手の名前が全て書かれています。
貴重な歴史資料です。
東京セネタースの看板選手だった苅田久徳選手。
現在は人工芝の4面の野球場になっています。
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