消えた球場番外 行けなかった跡地・西鉄香椎球場
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Mr.black
2021年12月11日 13:09 visibility2021
この年末に「とある遊園地」が閉園となります。
それは福岡県福岡市東区にある「かしいかえん(香椎花園)」。12月30日をもって閉園となるそうです。
この報道を知った時「しまった!」と思いました。この香椎花園の敷地の一角に西鉄ライオンズゆかりの野球場の痕跡が残っており、以前から訪問を考えていたからです。
その球場は「西鉄香椎野球場」。通常は単に「香椎球場」と呼称。西鉄ライオンズの二軍球場でした。
戦前の1939年(昭和14年)に開場し、西鉄の所有になったのが1942年(昭和17年)3月。←西鉄サイドは1942年を「開場年」としているそうです。
そして戦後に進駐軍の協力もあって再整備され、1948年(昭和23年)から二軍の本拠地として利用されるようになったとのこと。ごく僅かながら一軍の公式戦も行われたようです。
消滅した時期は1970年代初めとも、昭和50年代初頭(つまり1975年頃まではあった?)とも言われ、多少曖昧です。
球場は香椎花園の北西側に位置していましたが、老朽化や狭小グランドが問題となって閉鎖解体。その跡地を利用して園が拡張されたそうです。
そして現在の香椎花園の北側、ジェットコースターのある場所の近くが土手や堤になっており、そこにかつての球場のスタンドの一部が残っているらしいのです。昔の写真と照らし合わせると、残っているのはおそらく1塁側スタンドではないか?と思われます。(不確実ですが。)
ただ、レポートした人の写真を見るとかなり朽ちており、なおかつ草がボウボウと生えていてかろうじて視認出来る程度。まさに「兵どもが夢のあと」状態でした。
「それでもいつかは訪問したい」と思っていたのですが、叶わないまま閉園の報道に接したわけです。
閉園後も跡地が当面そのまま残っているようでしたらまだチャンスはありますが・・・。
あの鉄腕・稲尾和久氏が「環境が悪くて二度とここ(二軍)へは戻りたくないと思った」と語っていたそうです。まあ、昭和20~40年代頃の二軍は一部の球団を除けば劣悪な環境が当たり前だったでしょうね。
むしろ劣悪だったからこそ「ここから早く這い上がりたい」という思いが強くなり、それが一軍を目指すエネルギーにもなったはずです。
逆に現在のファーム環境は整い過ぎていて選手のハングリー精神が足りなくなっているかもしれません。何事も良し悪しがあるということです。
コロナが現在足かせになっているのですが、これが収束して何の懸念もなく遠征出来るようになった時、その時こそ訪問を実行したいです。
ただしその時には土地の形状などが全く変わってしまっているかもしれませんがね。
それと「かつてのNPB二軍施設の跡地巡り」も計画倒れのままなので、これもコロナ収束後には実行したいと思っています。
・・・残された時間が自分にどれほどあるかが懸念材料ですがね。(汗)
最後に。
近鉄ファンの私が何故西鉄ライオンズに特別な感情を持っているのか?には理由があります。
私がプロ野球を見始めた頃に「黒い霧事件」が起こり、それがきっかけとなって西鉄ライオンズの凋落とパ・リーグ人気凋落が一気に進んだからです。
「西鉄消滅」「パ・リーグ消滅」「1リーグ化」などが本当に起こりそうな状態でした。
この時には「パ・リーグが消滅したら近鉄はどうなるのか?」と子供心にすごく心配になりました。
私にとって、というよりは当時のパ・リーグファンにとって西鉄ライオンズの存亡は「対岸の火事」ではなかったわけです。
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