消えた球場(43)日本ハム球団多摩川グランド
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Mr.black
2022年06月04日 14:18 visibility4843
前回からの続きです。
大洋多摩川球場跡地を離れて土手の道を東南方向へ歩いて行きました。20~25分ほど歩くと、東急東横線の多摩川橋梁が目の前に。
それまでの道中、河川敷には草野球場がいくつもあるのですが、この橋梁手前のグランドは他よりも一回り大きいです。名称は「川崎市多摩川丸子橋硬式野球場」。一見軟式用ですが、硬式で利用出来るのですね。
両翼97m、センター122mもあるそうです。
この野球場と若干位置は異なりますが、すぐ近辺がかつて日本ハムファイターズの多摩川グランド(以下、「日ハムグランド」と表記)になっていました。日ハムグランド時代は両翼90m(92mという資料もあり)、センター120mでした。
なお、正式名称はタイトルの通り「日本ハム球団多摩川グランド」です。
現在のグランドではホームベースが北側にありますが、日ハムグランド時代のホームベースは北西寄りに位置し、バッターが東急の橋梁に正対する形になっていました。電車が頻繁に通るので布製のバックスクリーンが設置されていましたが、効果はイマイチで選手からは不評だったそうです。
更には電車通過時の音の問題もあったようです。野手同士の声がけが上手くいかなかったのですね。
その他の設備もお粗末。
スコアボードはパネル引っ掛け式で控え選手や球団職員が操作。(1塁側ダッグアウトの横にあったそうです。)
ちゃんとした更衣室は無く、ダッグアウトそばの囲いの中で選手は着替え。それが嫌な選手はユニフォーム着用のままでやって来たようです。
トイレもプレハブの簡易な物しかなかったので、選手・観覧者共にかなり劣悪な環境だったでしょうね。もちろん観覧席などはなく、グランド周辺・あるいは土手からの観戦になりました。
巨人の多摩川グランドも似たようなレベルだったと思われます。
違いは観覧者の数。巨人側は賑わっていたでしょうが、写真で見ると日ハム側はまばら。
張本勲氏がまだ日ハム在籍時代、巨人側の賑わいを見て「あんな風になりたいと思った」と述懐されています。川の両岸にプロ野球のグランドがあったのに一方は大賑わい、一方は閑古鳥。シビアですね。
↑ 巨人の多摩川グランドがあったと思われる方向。ここからは見えませんがね。(汗)
この格差は野球マンガの世界でも如実。
巨人軍多摩川グランドは「巨人の星」「侍ジャイアンツ」をはじめ様々な野球マンガで取り上げられていましたが、あくまでも私の知る限りでは、日ハムグランドがマンガに登場したのは「あぶさん」くらい。そして多少記憶が曖昧ですが「日ハムグランド」と明示されてはいなかったように思います。
「あぶさん」こと景浦安武が南海ホークスに居た時代、義理の弟・小林満が日ハムの投手として在籍していました。二軍で伸び悩んでいる満が気になったあぶさんがイースタンリーグの試合を観に行く回があったのです。
試合のシーンは短く、簡単な描写しかありませんでしたが、あぶさんが満に気づかれないように離れた土手から観戦していることと、自身が同じ日に後楽園球場のナイターに出場していることから、このグランドは日ハムの多摩川グランドだと推察しているのです。
このグランドが運用され始めたのは1961年(昭和36年)。当時球団名は「東映フライヤーズ」でした。
そこから1997年(平成9年)までの間「東映・日拓ホーム・日本ハム」が利用。
練習だけでなくファームの公式戦も行われていたのですが、既述の通り試合環境が良くなかった為、1992年(平成4年)以降は練習のみとなったようです。
その後、借地権の期限がきた為グランドは国に返却され、ファイターズはこの地を去りました。その時野球グランドも一度消滅。(※)
後年に川崎市が国からこの地を取得すると再び野球グランドが作られました。現在のグランドと日ハムグランドの位置が若干ズレているのはそれが要因です。
(※)東映の駒澤球場も東京五輪開催の為、立ち退きとなっています。不思議とこの球団は国との関わりで移転し、使用していた球場が消滅する運命を持っています。
プロ野球チームがごく普通の河川敷で練習や試合をする・・・何て牧歌的な時代だったのでしょうね。
しかしこの現代においてもヤクルトのファームは戸田の河川敷球場でイースタンリーグの試合を開催しています。何度か行きそびれているので、移転しないうちに是非とも見ておきたいものです。
大洋と日ハム、2球団の多摩川グランド跡地を見分したので「次は巨人の多摩川グランド行き?」と思われたかもしれませんが、ここで時間と電池切れになりました。この後は等々力球場に戻って社会人野球の試合を再び観戦し、帰宅しました。(大汗)
まあ、巨人の多摩川グランドはあまりにも有名ですし、ここのメンバーさんも過去何人かが既にレポートされているので「今さら私が行くまでもないか」と思います。
最後に。
事実なのかガセネタなのかはわかりませんが、「ファームの環境を改善して欲しい」と大社オーナーに直訴したのは故・大沢啓二氏と言われています。それが現在の鎌ヶ谷スタジアムに繋がったとのこと。
人によって好き嫌いが分れるようですが、私は「大沢親分」が大好きでした。上の話の真偽はともかく、今回この地に立って大沢氏の御冥福を祈った次第です。
今回の遠征記は次が最後です。
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