「わかる」ことと「できる」こと

今どきの生徒は問題を“見て”「わからない」と直感すると調べもせず、考えることもせずにすぐに聞いて来る。



まず、問題を“見て”と言ったのはキチンと問題文を読んでいないことが多い。そりゃぁ、どんな秀才(←死語?)でもわからないよね。況してや凡人なら、わからない問題に出会ったら、まず自分で考え、わからないこと、忘れてしまっていることは自分で調べなくては解けるわけがない。ひとつの問題を1週間考え続けるような経験が思考力を育てるのである。こんなことをしていると、個人的な経験ではあるが、夢の中で解法を見つけることすら経験する(笑)自分で考えもせず、調べもしないですぐに聞くことは恥と心得るべきである。



ところが、今どきの生徒には考えたり調べたりすることを面倒臭がる者が非常に多い。語学を学習するのに辞書をひこうともしない。自分で辞書をひかずに単語の意味を聞いて来たり、携帯でググったりしようとする。よくて電子辞書。全く話にならない。

国語辞典、英和辞典をひくことは語学の学習には勿論必要不可欠なことであるが、実は他にもその重要性があるのである。例えば、殆ど辞書などひいたこともない小学校高学年の生徒に場合の数で利用する樹形図の書き方を教えても、所謂「辞書式配列」の概念がないので、なかなか書けるようにならないのである。ということは、ちょっと複雑になるとまともにモノの数も数えられないということになる。



そもそも、何でもすぐに聞いてくるということの背景には次のような心理的背景がある。

問題がわからないと気持ちが悪い。その不快感、不安感をスグに質問して教えてもらうことによって解消して安心したいのである。巧い説明を受ければ一通りの理解は得られる。しかし、これは本当の理解を得たわけではない。わかったつもりにさせてもらって安心しているだけなのである。一通りの理解を得た問題などを持ち帰って、独り孤独にそれを復習する。すると、また疑問が湧いて来る。そして、調べ考え、わからなければ何度でも質問して反芻する。これが重要である。学習の生命線と言ってもよい。それに反して、今どきの生徒は、わかったつもりにさせてくれる教師を求めて来る。このような“生徒のニーズ”に真面目に応えようとするバカな教師が塾に多いように思える。そして、それが今どきの塾のウリなのである。



しかし、「わかる」(わかったつもりになる)ことと「できる」ことは全くもって別のことである。もうそろそろ、そこに気がつくべきである。

まず、当然のことながら問題文はよく読まなくてはならない。私は中高生に数学を教えることがあるが、授業の予習は問題文を暗記するぐらい何度もよく読んで来ることを勧める。他の予習はしなくてもよい。

そして、どの段階でもわからない問題に出会ったら、その問題に使えそうな、忘却の彼方にある定理などを調べて、忘却の海から引っ張り出す。過去に出会った類題を調べて、もう一度研究し目の前の問題に利用できないか考えてみたりする。こういう学習行為をしないかぎり絶対にできるようにはならないのである。今どきの塾に通い、塾ベッタリになればそこそこ受験偏差値は上がり、難関校にも合格できよう。しかし、そこまでである。社会に出て、誠意あるいい仕事ができるようにはならない。況してや、単身海外に行き、己の腕一本を頼りに海外の連中と張り合うことなど全くもって無理である。あっ、企業の駐在員などは籠の中の鳥に過ぎないよ。文科省の言うところの「確かな学力」など身につくわけがない。皮肉なことに、それは文科省の役人連中が証明しているではないか。連中、そこそこ受験偏差値は高かったのだろうが、ただそれだけだから、あんなことしかできないのである(笑)



「わかる」ことと「できる」ことは全く違うのである。

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