独裁者は民主主義から生まれる

「多様性を認める」と言って、解いてはならない封印を次々と解く愚かな現代人。「多様性を認める」などという言葉に魅力を感じるのは精神的に未熟でしかない。

「多様性を認める」と言えば聞こえはいいが、「混乱」という禍を招くだけであることにどうして気付かないのだろうか?この世の現象のほとんどは「表」と「裏」に分けられる。決して「裏」をひっくり返して表にしてはならない。そんなことをすればすべての人間を均一な「幸せ」の中に封じ込めて滅びの道を辿ることになるであろう。
「裏」にあるものは裏として認めればよいのであって、そこに光を当てる必要はない。「裏」にあるものを表に引っ張り出したとたんに、混乱という禍がこの世に溢れ出て来る。自分の墓碑銘を“混乱”とするしかなくなるのである。

権威を失墜させ常識を覆す。物質的豊かさを必要以上に奨励し内面を磨くことよりも外面を着飾ることに目を向けさせる。そして、内面を磨くことをしないから心弱き者が次々と生まれる。心弱き者は「悪」しか生まない。そして、一部の特権階級の言いなりになるしかなくなるのである。

この「多様性を認める」という言説は「価値観の多様化」という概念に基づいているのだろう。「価値観の多様化」などという言葉は、頭の悪いヤツが口にすることで、そんな連中が目立つようになって久しいが、価値観なんてひとつに決まっている。
それは、マクロな視点から考えて、人間社会の発展、維持に必要不可欠なことが正しく、それを阻むことは正しくない。どちらでもないことは正しくもなく間違ってもない。
飽くまでも可能性の問題だが、ある特定の種(人間であれば、それが人種・民族であったり特定のカテゴリーに属する人間であったりする)を滅ぼさざるを得ない判断も考え得る。価値は判断であり、その価値を判断する主体が失われてしまっては「価値」自体が成り立たないからである。
ただ、人間がこの地球上で人間だけで生きて行けるわけでは当然ないわけで、人間以外の自然と密接に関わっていることを忘れてはならない。このことを出発点として考えれば自ずと判断に“辿り着く”はずである。ひと言で言えば、価値とは「よりよく生きること」である。

そもそも、「価値観の多様化」って言うわりには、誰々にどうこう言われたって必要以上に騒ぐ者が多い。価値観の多様化と言うならば、喩え何と言われたとしても、ああ、あの人はそんな風に思うんだと考えていればいいんじゃないだろうか?まぁ、そもいかないって言うんだろうけど、だから、嘘なのである。「価値観の多様化」というのは・・・・

結局、「価値観の多様化」なんて言葉は、自分のつまらないエゴをごり押しするときの逃げ口上でしかない。





♪Mike Oldfield “Discovery” (1984) ☆★



















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