我的愛球史 第22話 エース と呼ばれなくなっても


背番号14といえば、巨人のエース沢村栄治と連想する人がほとんどなのではないか。

来日したメジャーのオールスターメンバーと堂々と渡り合い、ルー・ゲーリックのホームランによる1点に抑えた好投を実際に見た人は今やほとんどおられないでしょう。

しかし野球ファンならだれもがその伝説を語れることは何と素晴らしいことか。

沢村栄治さんと同じ背番号14を背負って、チームのエースとして活躍した選手として多くの人の記憶に残っているのが近鉄バファローズ阿波野秀幸選手ではないでしょうか。

躍動感あふれるフォーム。

多彩な変化球。

奪三振の多さ。

年間通じてローテーションを守り長いイニングを投げるタフネスさ、しかも大事な場面ではリリーフも辞さない。

絵に描いたようなエースぶりに、僕らは心から拍手を送っていました。

10.19の後、雑誌に阿波野選手の記事が載って「あの時、初めて神に祈った」という阿波野選手の言葉に僕は胸が締め付けられる思いがしました。次は絶対、近鉄に優勝して欲しい、そう思いました(僕は阪神ファンなんですが)。

だから1989年の近鉄優勝は嬉しかった。

日本シリーズ第7戦の終盤、近鉄の敗色濃くなって、ブルペンで淋しそうに立っている阿波野選手のウィンドウブレーカーの背中が今も目に焼き付いています。

翌90年は野茂英雄選手の躍進と入れ違うかのように不調に陥ってしまって、悲しかった。

春に西武戦でボークをとられてフォームを崩したことが不調の原因と噂されましたが、本当はどうだったのでしょう。

素直に考えて、大車輪の活躍だった過去3年の蓄積した無理に、心身タフな阿波野選手も為す術もなかった…というのが本当のところではなかったか、と僕は想像します。


その後、巨人で中継ぎとして再起を目指すも果たせず、98年に横浜ベイスターズへ。

ここで優勝に貢献。

日本シリーズで、西武ライオンズ西崎幸広選手と同じ試合で投げ合う姿を見た時は、横浜ファンでも西武ファンでもない僕ですが、涙が滲みました。


エースと呼ばれる時間は長くても短くても限られたものだと思います。

しかし、その試合、その場面において任さたマウンドを、培った技術と心で守り切るという役割は、エースと讃えられる先発投手も例えワンポイントに懸けるリリーフ投手も同じはずです。


どんなに辛い時期もどんなに辛い仕事も、集中力を切らさず、プロの誇りを持って全うできる職業人でありたい…、そう思います。そうです、あの日、阿波野選手が見せてくれたように。










































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