野球読書日記「球界に咲いた月見草 野村克也物語」
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こじっく
2022年09月23日 21:52 visibility343
私が幼稚園の頃だったか・・・CASIOの「ゲームデジタルベースボール」という野球ゲーム付きのデジタル時計がありました。そのCMに出ていた二人のおじさんに何かを感じた私はおばあちゃんに
「この漫才師のおじちゃん、誰?」
と聞いたら、おばあちゃんは答えました。
「漫才師と違う。野球の人や。野村さんと村山さん」
これが私の野村克也さんとの出会いでした。
その後、私が中学2年の秋、電車通学しているとスポーツ新聞に「ヤクルト野村監督就任へ」の見出しが踊っているのを見ました。もう、その頃には野村さんが球史に輝く偉大な選手であることは知っていました。しかし、野村さんが南海で選手兼任監督をされていたことの詳細は知らず、野村さんの知略を尽くす野球スタイルについても知りませんでした。
その後、野村さん率いるヤクルトは上昇気流に乗り、就任3年目にリーグ優勝、4年目に日本一に輝きます。
ちょうどその頃、1993年秋に世に出たのがこの本です。ただし、元となったのは野村さんが引退された翌年1981年に発刊された「月見草の唄」という本で、内容は主に野村さんの幼少期から現役引退までを振り返ったものになっています。今読み返すと、それがかえって新鮮に感じます。「野村克也監督」は知る人が多いのでよく語られますが、「野村克也選手」を知る人はもはや少なく、語られる機会も少なく思えるのです。
この本には、最初はチームからバッティングを期待された野村さんが、次第に投手をリードすることの重要性と奥深さに気付き、野球を究めていく過程が丹念に描かれています。
そして南海で選手兼任監督を務め、チームから放出する選手の見極めという重責も担うことになり、自分に言い聞かせるように話した言葉がこの本で紹介されています。
「野村は、前に書いたように、『一軍は大人の集団』として、遇していた。注意はしても、 人の面前で、怒ったりはしない。聞く、聞かぬにも、あまり拘らなかった。ただ、その結果 チームに迷惑をかけていると判断すると、思い切って切り捨てた。
『人間には善人、悪人とは別に、強人、弱人がいる。冷酷かもしれないが、脱落していく人 は弱人が多い。そこからどう這い上がるか。 這い上がってこそ、初めてプロだと思う』
冷酷といえば、去る者も追わなかった。
『いちどその気になった人間を引き止めてもムリが残る。もう集中力も期待できない。 プロ とはそういう世界ではないだろうか』 長いプロ野球生活で身につけた人生訓だろう」。(263頁)
後年のヤクルト、阪神、楽天の監督を務めた野村さんを球場やテレビで見た我々としては、上記の様な野村さんの姿には違和感を覚えるのではないでしょうか。野村さんは経験を積むほどに選手やチームへの思いが大きくなり、選手を人前で叱ることさえも厭わず、選手が自分の考えを理解することに拘りを強くされた様に思えます。
野村さんがテレビで「次生まれ変わっても野球を、そして捕手をする。野球がない世界に生まれたら自分が野球を作ってでもやる」と言われていたのを見た記憶があります。その言葉を思うとき、私は自分がそれだけ情熱を持って取り組んだものがあるか自問せずにいられなくなります。そして、情熱とは誰もが当たり前に持ち得るものではないし、自分が情熱を持てるものを探すことこそが人生の中で一番大事なのではないかと思わされるのです。
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