野球読書日記「南海ホークス80`s」
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こじっく
2022年10月30日 12:00 visibility613
私が小学校1年か2年の頃のおぼろげな記憶で申し訳ないのですが、小学舘の「何でも入門シリーズ」に「プロ野球何でも入門」という本があり、書店で立ち読みしていました。表紙は確か西武ライオンズの石毛選手でした。本の最初の方にカラーページがあり、12球団のスターが紹介されていました。西武や巨人は見開き2頁でところ狭しと看板選手がひしめき合っていました。カラーページの最後に1頁だけで紹介された緑のユニフォームのチーム。それが私が南海ホークスを知った最初でした。そこに掲載されていた香川選手の写真を覚えています。あの頃、水島新司先生の「ドカベン」は香川選手の高校時代を描いた実話だと思っていました。
小学校高学年になり真剣に野球を見るようになると、ホークスの連敗を報じる記事と門田選手のホームランの記事が目に入り「南海はパリーグの阪神みたいな存在なんだな」と思いました。
中学に入った1988年、夏休み頃から「南海身売り」の文字がチラチラと駅の売店の新聞スタンドに見える様になり、ついには一般紙一面に「プロ野球南海、ダイエーに身売り」の記事が出ました。
東映や西鉄の身売りを知らない世代としては初めて見るプロ球団の身売り。それは衝撃でした。クラスでの話題は近鉄は優勝できるか?、南海門田選手がホームラン王を取れるか?、そして来年門田選手は阪神に来るのか?という3点。二学期が始まりしばらくは近鉄と南海の勝敗と門田選手の打撃成績に皆が注目するという事態になりました。あの頃は皆がプロ野球を見ていた。たまらなく懐かしい時代です。そして10.19。近鉄優勝ならず。阪急身売り発表。翌日、阪急河原町駅の売店の看板に描かれた球団マスコットのブレービーを見て「来年は消えるのか」と寂しい思いをしました。1988年のシーズンは忘れ難いものになりました。
さて、この本は南海ホークス最後の日々を感じるには最高の一冊です。当時の杉浦監督や選手の姿や心情が手に取るように分かります。
例えば翌年の監督続投要請を受けた杉浦監督の発言はこうです。
「9月17日、ソウル五輪が開幕。この日、 大阪では杉浦がユニフォーム姿で南海電 鉄本社に出向き、吉村オーナーから続投 要請を受ける。 杉浦は『今はお答えでき ません。 相手は裕福な方だから嫁に行け と言われても、娘が気に入らなければ断 るでしょう。できることなら中内さんに お会いしてお話ししたい』と語った」。(57頁)
南海への愛着とダイエーへの抵抗を敢えて世間に露にする監督。しかも表現の仕方が実に日本的です。今の時代なら、こんな発言のできる監督はいるでしょうか。
一方で選手はというと・・・。
「加藤 正直な話をすると、選手の待遇も1 2球団では下のほうで、活躍しても給料が上がらない状況だった。 新しい、景気 のいい会社がチームを買ってくれるので あれば、「今よりも下はないな」と思うの が普通であって。だから、大阪を離れる 寂しさもありつつ、楽しみな部分が上回 っていたと思う。ベテランの人は複雑だ ったと思うけど、われわれはまだ若かっ たし、独身だったから」(91頁 加藤伸一さんと湯上谷宏さんの対談から)
やはり杉浦監督とは南海への思いに温度差があります。
身売りという事態になりましたが、結局のところ選手から見ても原因となった低迷についてはこんな分析もあります。
「井上 勝てないのは、やっぱり寂しかっ たですよ。のちにロッテでコーチとして優勝を経験しましたが、いま思えばあの ころの南海は、優勝を争っているチーム とは次元が違っていたのかなという気が します。 優勝をする喜びをチームが知ら なかった時代。僕自身を含め、野球で上 り詰めていこうという気持ちが足りなか ったように思います。」(85頁 井上祐二さんへのインタビュー)
南海ホークスは良き昭和への憧憬、そして浪花のロマン。
南海ホークス在籍経験のある方は少しずつ球界から減り続け、大阪球場を知る野球ファンも高齢になっていかれます。
それでも南海ホークスがあった頃のプロ野球の思い出はいつまでも温かく、私達を幸せにしてくれるのです。
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