野球読書日記「龍谷大平安・原田英彦のセオリー」
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こじっく
2022年11月23日 10:35 visibility463
私は高校野球では龍谷大平安のファンです。
生まれて初めて足を踏み入れた私学の校舎は龍谷大平安でした。当時はまだ「龍谷大」がついておらず、「平安中学」そして「平安高校」でした。私は小学生でしたが自分がイメージできる「私学」そして「中学・高校」は平安中学そして平安高校でした。
ちなみに、大学野球は京大のファンです。理由は平安と全く同じで、こどもの頃、頭の中にイメージできた唯一の大学の建物が京大の時計台でした。京大が勝った試合を初めて球場で観た時の嬉しさは忘れられません。
しかし私の母校は立命館です。当然、高校野球は立命館が敗退するまでは立命館を応援します。立命館は「ファン」という次元ではなく、いわば私の血肉です。
しかし、2006年の秋と2011年の秋、我が立命館が平安に勝った時の心境は言葉にできません。嬉しいけど寂しい・・・。これが最も近い感じですが、正確に言い表せる言葉がありません。
大学野球を球場で観るのが好きなのですが、立命対京大は観に行ったことがありません。観に行かない様にしていました。どちらを応援したら良いのか、自分の中で決められないのです。
前置きが長くなりました。
私の平安応援熱が一気に高まったのは、1990年の夏、西村-松岡のバッテリーを擁し本当に久しぶりに平安が甲子園に出場した時です。あの頃は京都西(今は京都外大西)や北嵯峨が強くて、平安の前評判はそれほど高くなかったと思うのですが、府予選の準決勝で京都西に劇的な逆転サヨナラ勝ち。勢いそのままに決勝は北嵯峨に快勝しました。甲子園でも初戦で優勝候補と言われた関東一高を好ゲームの末に下し、2回戦も境高に勝利。3回戦で丸亀高と熱戦の末に敗れましたが、京都の盛り上がりは凄かった。京都に平安ファンが如何に多いかを実感しました。
しかし、その後しばらく平安は甲子園に届かず・・・。平安再建を託されたのが母校愛に溢れる原田英彦監督です。原田監督率いる平安は1997年夏の甲子園準優勝、2014年春のセンバツ優勝を果たします。
その原田監督の野球哲学や指導論をまとめたのがこの一冊です。
読んで思うのは、野球と自分の学校・チームが大好きな選手が集まって戦えば、そりゃ強いに決まっている。野球や学校へ熱い思いを育てるには親への感謝やユニフォーム等の野球道具を大切にすることが基幹になります。原田監督の野球は豊かな感性の野球、心の野球だな、と思います。
原田監督の平安という学校、そしてユニフォームへの愛着を示すエピソードが紹介されている一節を抜粋します。
「最後の平安高校として戦った2008年のセンバツが終わり、迎えた夏の京都大会。龍谷大平安と して臨む初戦の当日、試合前になっても原田監督は新しいユニフォームに袖を通せないままでいた。 『ホント着れなかったです。 こんなん絶対着いひんって。でも、着な、試合できへんなぁとなって、 最終的には、キャプテンの山口(篤史)に「オレは自分で着るの嫌や。お前、着させい」って着させ てもらったんです。『オレは自分で着たん違うぞ。お前が着させたんや。お前が責任取れ」って言い ながら(笑)』
新ユニフォームに袖を通し、“観念”したように見えた原田監督だったが、そうではなかった。 そ の後もしばらく練習試合用のユニフォームは龍谷大と入っていない旧タイプを着用していた。公式戦 でもスタンドの選手たちには平安時代のプリントユニフォームを着させていた。
『そしたら、龍大からクレーム来たんですよ。「応援団のユニフォームに大学名が入ってない」って。 『みな買ってます。大学名を入れたらお金がかかる』と言ったら、『大学がお金出します』となった (笑)。それで仕方なく入れたんです」(205頁)
私の母校立命館高は、最近、ユニフォームは大学と同じになりましたが帽子は独自のオレンジ色の「R」を守っています。どの学校も独自の伝統を守る見えざる戦いがあるのですね。
来春、龍谷大平安をセンバツで見たい!
頑張れ!平安ナイン!頑張れ!原田監督!
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