ピックアップレジェンドサッカープレイヤー No.290
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2024年12月14日 14:19 visibility107
田中 マルクス 闘莉王(たなか マルクス トゥーリオ)
国籍 日本、ブラジル
生年月日 1981/4/24
出身地 サンパウロ州パルメイラ・ド・オエスチ
身長/体重 185cm/85kg
ポジション DF(CB)、FW(CF)、MF(DMF)
利き足 右
代表デビュー 2006年8月9日トリニダード・トバゴ戦
主な出場大会 五輪(2004年)、W杯(2010年)
プレースタイル
確かな守備力と空中戦での圧倒的な強さを持ち、正確なフィードで攻撃の起点にもなれるセンターバック。その空中戦の強さを活かしてセットプレーなどで高い得点力を発揮できるためFWとしても起用されることがあり、またスピードには優れないが、それをカバーできる頭の良さも持っている。
経歴
9歳の時に本格的にサッカーを始める。中学校では体育教師の熱心な勧誘でバレーボール部に所属してエースアタッカーとして活躍するなど、この時期はサッカーから離れていたが、1997年にはミラソウFCのセレクションに合格。この頃からプロサッカー選手を志すようになり、1998年1月には千葉県の渋谷幕張高校サッカー部監督の宗像マルコス望に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われ、同年3月に来日した。その後千葉県選抜の一員として国体に出場し、全国優勝を果たし、また高校最後の大会となる全国高校サッカー選手権大会予選で決勝点を決めて、同校初となる選手権出場へと導いた。
2001年には高校を卒業しサンフレッチェ広島に入団。プロ1年目はJ1開幕戦・鹿島戦でリーグ戦デビューを果たすと、同試合でJリーグ初ゴールを記録。2001年にはリーグ戦17試合に出場し1得点、2002年には22試合に出場し1と空転を記録するが、2002年シーズンに広島がJ2に降格し、1年での昇格を目指すためクラブはベテランの外国籍選手を獲得することとなり、1チームにA登録選手が3人までと規定されていた外国籍選手の保有枠に入れず、翌2003年からJ2の水戸ホーリーホックに期限付き移籍で加入。その水戸では個性を大事にした監督の前田秀樹のもと、ディフェンダーでありながら10得点を挙げるなどの活躍をし、守備も攻撃もできる選手としての才能が開花することとなった。同年10月には日本国籍を取得して、登録名を「トゥーリオ」から「田中マルクス闘莉王」に変更した。
2004年にはJ1の浦和レッズに完全移籍。するとここではレギュラーで活躍し、ステージ優勝を果たし、2005年にはDFながら9得点を記録し、また同年には浦和でリーグ初優勝を果たし、Jリーグ最優秀選手賞 (MVP)および日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞。2007年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝、FIFAクラブワールドカップ 3位に貢献し、浦和の黄金時代を築いた。2008年には7月の東京V戦でハットトリックを達成するなどDFながらチーム得点王となる11得点を挙げるなど、以降も攻守にわたって浦和の軸として活躍。またJリーグベストイレブンには、浦和に在籍した6シーズンすべて選出された。
一方で浦和入団の際にラブコールを出してくれたギド・ブッフバルトの退任以降に就任したホルガー・オジェック、フォルカー・フィンケら後任監督と相次いで衝突。また2009年8月にはベテラン選手をクラブから去らせるなどの方針を採った浦和のフロントとフィンケの方針に苦言を呈したが、状況は変わらず。浦和は契約更新を前提に、今後のチーム作りの方向性やクラブ内での約束事等を提示したが、合意に至らず、2009年シーズン終了後に契約満了により浦和を退団し名古屋グランパスへの完全移籍が決定した。
一方2003年10月にはクラブでの活躍が認められ日本国籍を取得すると、すぐに山本昌邦率いるU-23日本代表に選出され、2004年3月にはアテネオリンピックアジア地区最終予選にも出場。予選では全治3 - 4週間と診断されたが本人の願いにより松葉杖をついて残り2試合に同行。その後本大会のメンバーにも選出され、3試合すべてに出場した。2006年8月にはイビチャ・オシムの指揮するA代表に初選出。以降は負傷を繰り返しながらも、日本代表の中心選手として定着した。2008年からの2010W杯アジア最終予選では8試合に全試合フル出場して本大会出場に貢献し、本大会への代表にも選出された。また2010 FIFAワールドカップ本大会では、守備の大黒柱として全4試合にフルタイムで先発出場し、自国開催以外で初となる日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。
一方、名古屋では加入会見で「リーグ優勝できなければ名古屋に来た意味はない」と語った言葉通り、中心選手として名古屋を初優勝へ導いた。最終ラインを巧みに統率して守備を安定させ、空中戦でも圧倒的な強さを発揮。さらに高精度のフィードを前線に配給して攻撃の起点になりながら、機を見て攻め上がりゴールにからむ決定的な仕事もこなした。その貢献度は大きく、「初優勝の最大の立役者」との評価を受けた。しかし、「サッカー人生で一番重視していたワールドカップイヤーで、しかも名古屋に移籍して優勝すると公言したから100%以上の気持ちでやった」ことによる代償として、終盤戦には右膝と太腿裏を負傷し、リーグ優勝の瞬間にはピッチに立つことができず。2011年以降も怪我やブラジルのボタフォゴからオファーを受けたこともあったが、大黒柱としてチームを支え続け、2012年にはFWとしても起用され9得点を記録。2014年には新たに監督に就任した西野朗から主将に任命された。この年は7得点を挙げ永井に次いでシーズンチーム得点数2位を記録。2015年シーズンも主将を2年連続で務め、シーズン通してレギュラーとして出場したが、大幅な減額での契約更新の打診には応じず、翌年1月に名古屋グランパス退団が発表された。
名古屋退団後はブラジルに帰り、無所属の期間が続いたが、2016年8月に降格圏内で低迷していた名古屋へ復帰する事が正式に発表された。9月10日に行われたJ1・2ndステージ第11節新潟戦で公式戦293日ぶりのピッチに立ち、クラブワースト記録の18戦勝ちなしだったチームを勝利へ導いた。その後自身が加入後にチームは残留圏内に順位を上げ、最終的には15位の新潟と勝ち点は並んだが得失点差でJ2降格が決定。シーズン終了後、翌年からのアドバイザー就任の打診を断り、11月7日、契約満了に伴って名古屋を退団した。
名古屋退団後は、一時ブラジルに帰国し、自身の力でチームを残留させられなかった事や、名古屋から迫られた形での退団となったことでのショックで引退も考えたが、京都サンガF.C.の強化部長らがブラジルまで直接訪ね、熱意を感じ2003年以来のJ2での戦いを決意した。2017年1月には正式に京都へ加入する事が発表された。3月に行われた第2節の徳島戦ではJリーグ18ヶ月ぶりゴールとなる移籍後初得点を決め、4月に行われた第8節の愛媛戦では、FWとして起用されハットトリックを達成するなど35歳11カ月22日でのハットトリックはJ2最年長記録を更新するなど、同年にはキャリアベストの15ゴールを決めた。2018年10月には徳島戦で決勝ゴールを決めたが、2018年の以降の試合と2019年はノーゴールに終わったため、この日のゴールが現役最後のゴールとなった。2019年12月には現役引退を発表した。
現役引退後は祖国・ブラジルに戻り、牧場を経営。約40㏊に馬20頭、肉牛50頭を育てている。その傍ら、2022 FIFAワールドカップのNHK総合テレビジョン、フジテレビジョンの中継において、スタジオコメンテーターを務めている。
代表記録:43試合8得点
皆さん、こんにちは!
今回は引退選手を紹介していきます!今回は290人目の引退選手というちょっと切りが良い数字という事で日本代表やJリーグで数字でもプレーでも大きなインパクトを残したDFWの田中マルクス闘莉王氏です!
トゥーリオと言えば最近youtubeやっていて、特に2年前になりますが森保JAPANやFWに対する辛口コメントがインパクトに残っています^^;
その高い身体能力を生かして空中戦で無類の強さを発揮し、その強さでDFながらJリーグでカップ戦も含めて通算100得点以上記録するなど攻撃でもインパクトを残しました!
また水戸での活躍をきっかけに浦和で覚醒し、JリーグではMVPを獲得したり、ベストイレブンを9回受賞し、Jリーグ優勝を2回、天皇杯を2回、ACL制覇など輝かしい実績を残しました!
ただ一方でその熱い性格が元となって監督と衝突したり、浦和ではクラブの方針に苦言を呈したこともありました。恐らく、森保監督とは合わないタイプですね(笑)
最近もW杯予選の日本代表の評価をしている動画も出していますね~。
最近の日本代表はアジア予選でほぼ無双状態ですが、闘莉王の辛口コメントも炸裂しています^^;
今後の闘莉王のyoutube動画に注目です!
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