悩みや問題があることは贅沢なこと
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虎男
2017年08月22日 10:58 visibility648
草野球をやっていなかった時の頃のことをふと思い浮かべた。自分の生活は充実していただろうか?心の中に「これ」と言う物があっただろうか?そして、現在と将来のことを見据えての目標はあっただろうか?そして、人のために何かをするなんてことを自分がやっていただろうか?自分の好きな事、好きな物はこれですと胸を張って人前で言えていただろうか?そんな疑問が山ほど出てくる。私は今、間違いなく「幸せ」に近づいた生活の中にいることは間違いない。自分の幸せは「これだ」と言えるものがある。それは草野球をやることであり、チームを愛することであり、そしてそこから派生する人間関係があって、それらの人たちと年齢を超えて同じ野球と言う「楽しみ方」を共有していることだ。こんな幸せなことって、誰にもあるのだろうか。色々な人たちと出会えたのが、チームがこうしてあるからであり、チームに入って来た人間たちとのかかわりの中で、いまだに友好的に交流できているメンバーもいれば、二度と会いたくない人間もいた。それでも野球チームの運営はストップできないのは、私の気持ちの中で「野球以上に素晴らしいスポーツ、素晴らしい趣味、素晴らしい心の支え」に出会っていないって事だと思う。こんな私も、語学を勉強したり、絵を描いたり、詩を書いたり、旅に出たり、料理を作ったりしているが、そのいずれも「これが私だ」と言うものではない。そして、それらの私が「トライ」したものの大半が野球をもっと好きになるための道具のようなものであることは間違いなく、野球がこの世の中にあったからこそ56年間の間生きながらえて来たのだと言い切ることができる。所謂、野球無しでは生きている意味が無いと言える人間なのだ。
多くの人たちは「現役」にこだわる人が多い。もちろん過去に自分のやっていた競技種目で栄光がある人達は自分の衰えとともに、その世界の事にこだわることを嫌う方たちもいる。無言をつらぬく方たちもいるだろう。だが、「好きな物との付き合い方」は人それぞれで良いが、好きな物があるから「人生に意義」がもたらされるのではないだろうか。好きな物はやるだけでなく、見ることもできる。自分がやってきたことの経験は知識として蓄えられ、後進の指導と言う部分での喜びももたらされる。もちろん、自分がそれを再現できるからだがあれば、さらに良いが、もう体は自分の思う通り動けなくなってしまったとしても、細かいところを見つめる目と言葉が的確に表現で来さえすれば、自分の技術は若い後進たちに「技術と考え方」として残すことが可能なわけだ。その素晴らしさは、指導をしていく喜びをも味わえる。野球を「プレーすることだけ」と考える事の狭量さは、ものすごく悲しい考え方だ。次世代へ繋げてこそ、野球であり。次世代に自分の「野球への想い」を千々蹴ることの素晴らしさを考えること。これが体が思うように動かなくなった時に、私がやっていきたいことだ。
人間関係が野球のチーム内には必ず発生する。愛称の悪い相手もいる。何を考えているかわからないメンバーもいる。協調性が無い「大人になり切れない人間」もいる。そういう人間とのかかわりあいがあればこそ、どこに柱をおいてチームを延ばして行くかは、「野球をやりたいのか、やりたくないのか」と言う基本線を、そういった個性的で未熟な連中に問いかけてやることだろう。野球がやりたくない。こんな監督と一緒にやってられないって思っている人間に無理にチームにいて欲しいなんて思う事が無駄。そんなことで「この選手が抜けると地無力は格段に下がってしまう」と考える監督は、その監督こそ辞めちまえである。プロ野球ですら「野球選手はまず人間であれ。常識をもってこそ人間であり、協調性をもってこそ組織人である」と野村克也氏は言う。王ソフトバンク会長の姿を見て、「品格があり、そしてご本人の言動が卓越した人と言うイメージを誰もが抱く」のは間違いなく、野球人の鑑であると誰もが思うのは「その域まで極めた求道者」であるからには間違いないが、その基本は王会長が人間としての「常識や協調性」を重んじ、それをきちんと守り続けていらっしゃるからで、野球の基本はそこにあると自らが示しされていると言うことだ。
草野球位の事で、大袈裟なと言う人は草野球チームには入らない方が良い。草野球チームは立派な組織だ。組織に入るからには、組織のルールがあり、そのルールを遵守できない人間は「最初から入って来る必要が無い人間」だと気が付くべきだ。組織の中にいる限り、組織を助けて行くこと。組織内の人々に対しての感謝が示せないで自分の主張ばかり強い人間は、個人でやる趣味を見つける必要がある。組織スポーツは己を殺してもやる必要がある覚悟の人間だけが継続できるのであって、個人でできるような種目のスポーツとは違う異質のスポーツなのだ。それを理解していないで表面的に「格好が良いから」くらいの気持ちで入部してくる人間たちの「結局継続できないで辞めて行く姿」をどれだけ見た事か。チームでやるスポーツが片手間に「お試し」で来る人間を「数合わせ」のために「お願いして呼ぶ」ことは、それは組織運営ではない。そしてチームにしばられたくないけど、野球がやりたいと言う人間は野球をやるべきじゃあない。そんなのは野球じゃあないからだ。チームと言う組織に愛着を持って「チームのために」と言う考え方が無い選手が「甲子園の高校野球大会」にいると思っている人間がいたら、私はそういう人間は「頭がおかしい」もしくは「野球をチームでやるスポーツ」だと思ってない人だとしか言いようがない。
草野球の人間関係は必ず発生する。そして、片手間にやりたい人間には「チーム愛」など発生しないのも、この13年間やってきて良く分かった。学生野球も私は経験しているので、さらに組織に向いてない人間も見抜けるようになった。すべては「野球を継続的にやりたい。チームと言う物を自分が体験し、継続して行きたい」と言う覚悟の無い人間は、結局は辞めて行く結論を探し、それが一番楽な結果が得られると知っている。それは、なぜだと言えば「野球は一人ではできない」と言う事を理解してない証拠であり、自分が自分がを強調している人間だからこその「気に入らなきゃ辞めりゃ良い」と言う「改善策を持ちえずに、常にそういう逃げ道を懐に持っている人間」であること。そして、自己主張が強く、周囲に対しての配慮が無く、自分の持論だけが正しいと思っている人間が問題を発生させ、それを捻じ曲げて大きくして行こうとする。ただ、これも人間関係の摩擦であり、考え方の相違であると言う人たちに一言言っておく。そうではない。その証拠に、チームの仕事を一つもしない癖に、活動への出席率も悪い人間が一番こういう問題を発生させる種を持っている。私は学生時代に全て体育会系の部活で過ごしてきた。体育会系とは何か。「言い訳は許さない。部のための行動ができない奴は去れ」と言う中で生き抜いてきたのだ。生業を持った社会人が他の組織に入って、その組織のルールが守れないと言うのは、自分の生業がどういう性質のものなのかも、他の人間は厳しく評価してしまうのはやむを得ないだろう。基準は、生業として何をしているかではなく、その人間の生業以外での組織への行動が全て「子は親の鑑」と同じように映ってしまうからだ。
私は、今まで以上に頑張ってチームの継続運営をやっていこうと考えている。そして、それには覚悟がある。そして、もちろんチームメンバーを鼓舞していくとともに、メンバーに無理強いはしない。自分ができることを前面に押し出して、きちんとしたチームを作ることはもちろん、マナー良く、他のチーム様から「また虎男さんのチームと対戦させてくださいね」と言われることを目標としてやっていくこと。それが私の目標であり、また私のライフワークへの活力なのだ。けっして基本は創部以来ぶれていない。私は、こうして悩んだり、考えたりしていくのだろう。しかし、チームがあればこその「贅沢」であり、一人ぼっちの時間が人生の中に1年以上もあったことを考えれば、他人との摩擦はなんと贅沢な事か。今後ももっと勉強をしていきたい。
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