親父の背中
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HiRO
2006年07月06日 17:48 visibility617
遠い夏のある日のことを想い出していた。
もうかれこれ20年前。高校3年の夏。福岡大学病院の外科病棟。
お袋が一緒に聞いて欲しいというので、お袋と2人で親父の主治医の説明を聞いた。
親父の身体の変調。検査した結果は、食道ガン。主治医は淡々と説明する。
当時の医療では非常に難しい治療であること。5年後の生存率が20%を切っていること。その中にあって、最先端の、最も新しい方法の手術を試みること。
その説明を聞きながら涙ぐむお袋。帰宅して号泣する、そんなお袋に同じく泣きじゃくりながら噛みつく姉貴。
「まだ、死ぬって決まったわけやないっちゃけん、泣きなさんなよ!」
ショックだった。だが、その会話の中で、自分は、今後、親父に何があっても絶対に泣くまい。そんなことを考えていた。
午前中に始まった手術が終わったのは陽が傾きかけた頃。7時間にも及ぶ長い手術を終えた親父が、手術室から出て来た、その姿に愕然とした。手術室に入っていくその姿と比べると、まるで別人のようにゲッソリと痩せ衰え、一気に10歳以上老けたかのよう。臓器を切除するということは、こんなにも人間の肉体に負荷を与えるものか。実際、60数kgだった親父の体重は40数kgにまで落ちていた。その世代にあっては、176cmと背の高かった親父の、背筋をすっと伸ばして歩く姿が印象的だったのだが、痩せ衰えた小さな背中を丸めて歩く姿を目の当たりにし、自分がしっかりせねば、と思ったものだ。
中学、高校時代、自分は親父に猛反発していた。親父のやることなすこと、いうこと、全てが気に入らなかった。だが、取っ組み合いの喧嘩をして勝ったことは、ただの一度もない。
「勝ち逃げかよ...」
親父の姿に人知れず泣いた。
それから親父に対する見方が変わった。
結果、親父は様々な身体のトラブルと闘いながら10年を生きた。
手術以来、好きな酒もたばこもやめた親父と、ゆっくり酒を飲み交わすことができなかったのは、今でも残念に思う。
昨夜は送別会があったため、深夜2時に帰宅しそのまま就寝した。
いつもより遅い出勤の電車内で、前に座るオヤジが拡げるスポーツ新聞。何気なく目をやったその新聞の見出しに驚愕した。
王監督、入院?!
腫瘍?!
出社して、急ぎ仕上げねばならない資料がありながらも、ニュースサイトを読み漁る。読みながら、会社におるにも関わらず熱いもんがこみ上げてくる。涙が出てきた。パーティションの陰に身を隠しながら、そっと涙を拭う。
この10年間ほど、ずっとそのピシャッと伸びた背中で若鷹たちを育ててきた王さん。Hawksナインにとっての「大きな背中の親父」。
ファンである自分も、その真っ直ぐな背筋の正しさに幾度となく感動し、感銘を受け、その背中に少しでも追いつけるようになりたいと思うほどに、王さんには影響を受けた。
子供の頃、よく「尊敬する人」なんて聞かれて誰も思い浮かばず困ったものだが、大人になった今なら、その質問に堂々と胸を張って答えることができる。
「王さん。それと、親父。」
そう言えるほどに、自分にとっては大きな存在。
親父が死んでからのこの10年。自分は、王さんの背中を見て成長させて貰ったと本気で思っている。
そう、直接は逢ったこともないけど、紛れもなく、自分にとっても「大きな背中の親父」。
だから、なのだろう。
何故か実の親父の事を想い出してしまった。
WBCに参加する際、王さんを評してICHIROが言った。
「嘘のない人。表裏のない人。だから信用できる。」
偶然だが、ちょっと前、会社からある社員の扱いに関して相談を受けた。
「HiROさんのような表裏のない人に預けたい。」
口にした本人にしてみれば、ただのお世辞かも知れない。だが、琴線に触れた。
ナインにとっても、ファンにとっても、いや、福岡にとっても「でっかい大きな親父」となった王さん。
だが、その道程はそんなに簡単なものではなかった。
常勝軍団を作る。
自身が、Giantsでなし得なかった目標を胸に、九州は博多へ、そして人気あるセ・リーグからパ・リーグへと身を転じた「世界の王」も、最初の3年間は辛酸を舐め続けた。
Giantsファンではない自分は、王さんのGiants監督時代の采配を見て「名選手、名監督ならず」を地でいく存在と感じていた。当然、Hawksの監督に王さんが就任する、と聞いた最初の反応は、「うぇ〜?!マジ?!勘弁しちゃりやい!」
正直、客寄せパンダはもう田淵で充分、本当にチームを強くしてくれる監督が欲しいと思った。
おそらく、圧倒大多数の福岡のファンもそうだったろう。初優勝したのは就任5年目のこと。それまではいろんなことがあった。
ちっとも強くならないチームにしびれを切らせたファンから、王監督に退任を迫る横断幕が掲げられ、連敗中にバスに乗り込む際には生卵を投げつけられた...。
今、思えばファンにあるまじき悪行である。
が、かくいう自分も、恥ずかしい限りだが、スタンドから「王、さっさと辞めんかぁ」などと罵声を浴びせたことがある...。
1999年9月25日。
福岡ドームの1塁側スタンドにいた。初優勝の瞬間である。
だが、目の前の優勝の光景がほとんど記憶にない。ボロボロに泣いた。人間ってこんなに涙が出るんや、と思うくらい涙が出続けた。
頭の中には、クソ弱かった頃にチームを支えた、佐々木や岸川、山本和、山内孝、村田といった顔が浮かんだ。目の前で行われている胴上げ、優勝セレモニーは涙でにじんで全く見えなかった。
その頃になって初めて伝え聞いたエピソード。
Hawksが勝てない時期、中州のとある店で。
サラリーマンの上司と部下2人、計3人が飲んでいたところに、王さんが入ってきた。ベロベロに酔った上司が王さんに絡みはじめる。
「何で勝てんとや?」
「さっさと辞めやい」
上司はひとしきり文句を言い酔いつぶれたらしい。王さんに申し訳なく思った部下2人が、王さんに「すみません。ご迷惑をおかけしました。」と謝った。その若い2人に王さんはこういったそうだ。
「これだけHawksを愛してくれているファンに応援されている我々は幸せです。見ていてください。必ず優勝してみせますから。」
これを聞いて、また涙した。それとともに申し訳なくて申し訳なくてたまらなくなった。そんな人間に、自分は何も考えず、あんなことをいっていたのかと思うと情けなくなり、自らを恥じ、胸の奥で懺悔をした。
確かに、Giants時代はいうに及ばず、Hawksの監督に就任した後も、王さんの采配に異論を唱える声が多かったのは事実だ。しかし、王さんは福岡に来て、年を追うごとに変わっていった。自分が言うのも失礼だが、王さん自身も成長したように思う。正確に言うと、采配自体はさして変わっていないかも知れない。だが確実に目に見えない何かが変化した。眉間のしわしか印象にないGiants監督時代には見せなかった様々な表情を、Hawksベンチでは見せている。
そして、言葉では言い尽くせない太い絆を、選手との間に、ファンとの間に、そして福岡市民との間に築いていった。
改めて考えるまでもなく...
世界の王が、パ・リーグ、しかも地方都市の福岡に来たのだ。
その決断の裏には、物凄い葛藤があったに違いない。感覚的には「都落ち」だろう。(かつて、Lionsを率いた三原も同じ経験をしている)
そして、さらに想像以上に勝手が違った。
当時のチームには勝つこと、優勝することへの執着がなかった。シーズン当初に「目標は優勝」と言われても誰も本気にしなかった。
常に、自らを高めることに目標を置き、そしてチームの優勝と日本シリーズ制覇を義務づけられていたGiantsの王貞治から見れば、同じプロ野球チームとは思えないような状況だったに違いない。
そして選手もその違いを感じていたようで、どことなく遠巻きにしていたようだ。
今の礎を築いた故根本球団社長は1999年春のキャンプで選手にこういった。
「オマエら、何を遠慮している?何をビビってる?同じ人間やないか。あいつ(王)はただのラーメン屋の息子やぞ。」
その年の4月、根本氏は急逝、チームはその年に初優勝を飾る。
確かに、監督としては喜怒哀楽が激しく、気が短くて、頑固で......一般的にいわれる監督の適性でいえば、向いているとはいえないのかも知れない。だが、だからこそ、小久保や城島、松中を根気よく育てることができ、10年という月日を経て、球史にも稀に見る、とんでもないチームを作り上げることができたのだろうと思える。
Hawks監督就任に際し、王貞治は言った。
「この広い福岡ドームで打ち勝つチームを作る。」
当時、この発言はマスコミのみならずファンにさえ失笑を買ったものだ。
普通、この広さを目の当たりにすれば、目指すべきは、足の速い野手を揃えたスピーディーな野球やろ?と。
だが、福岡ドーム以上の、発想のスケールの大きさを王貞治は持ち合わせていた。
なんせ、現役時代、全員が極端に右に寄って守る「王シフト」を敷かれても、「野手の頭を越せば関係ない」とばかりに、敢えて流し打ちなどはしなかった王貞治である。
時間はかかった。
だが、「あのフェンスを越えていけ!」。
その王貞治の信念は、この福岡ドームのサイズをものともしない、とてつもない超弩級の打線を育て上げた。
小久保、松中、現WhiteSoxの井口に、Mariners城島。日本人だけで楽にクリーンアップが組める夢の打線。
小久保は「4番は作れるものではない。4番を打てるのは特別な才能を持つ者だけだ。」という信念(今にして思えば小久保へのメッセージとも言えるが)のもと、どんなに酷い成績でも4番を打たされ続けた。本人も辛かったろう。だが、王監督は決して変える素振りすら見せなかった。
その王貞治に、英才教育を施され、常に上を目指す意識を叩き込まれた小久保は、いつしか背中でチームを引っ張る存在となり、それに触発されて松中や斉藤が成長した。
そして、王監督のスピリットを継承した小久保自身は、今や王貞治のいたGiantsの主将という立場にいる。
城島は王監督就任の年に入団している。中学生のときに開催された野球教室で、王貞治に「君は将来プロ野球選手になれる。一緒にプレーしよう。」と言葉をかけてもらったのも何かの縁か。
その彼も、優勝の前のシーズンに王監督との確執を伝えられたりもした。
「いいキャッチャーを育てれば10年はチームが保つ」といって城島をとったのが根本。
そして、城島のような最初どうしようもなく下手くそだったキャッチャーを、「優勝するチームをつくるためにコイツ(城島)を正捕手として育て上げる」といって、どんなに批判されても外さなかったのは王貞治だ。そのために、城島を育てる、それのみを目的に、元Lionsの若菜をバッテリーコーチに呼んだ。
もともとバッティングには天賦の才がある。
長嶋茂雄の育てた傑作が松井秀喜という王貞治タイプのバッターで、王貞治の育てた傑作が城島健司という天才肌の長嶋茂雄タイプのバッターであることが面白い。
そして、「王シフト」さえも受け継いだ松中信彦...。
結果として、王貞治は、負け犬根性が染みついたHawksというチームを根本から作り直し、選手一人一人の意識に、現状に甘んじることなく、常に上を目指す姿勢を植え付け、常勝チームの礎を築いた。
その実績は、あの王自身を解任したナベツネをして「Giantsへの復帰もあり得る」と言わしめた。実質的なラブコールである。(もっとも、本人王監督は親しい記者に「何を今更」とか、原の事実上の解任劇を見て「福岡で良かった」と発言している。)
Giants時代には、陰で「ワン公」呼ばわりしていた選手もあると聞く。だが、今のHawksには、そんな選手はいない。
昨日のLionsとの首位攻防戦にあって、試合途中、守備についている宗則の目が赤らんでいた。マウンド上で、杉本コーチに強い態度で降板を固辞する渚。試合終了の瞬間の3塁ランナー信彦の涙。そのままベンチに戻って人目も憚らず泣く信彦。
皆、「親父」が戦線を離脱する最期のゲームに勝利をプレゼントして送り出したかったのだ。そんな「息子達」の気持ちが痛いほど伝わってくる。
宗則がいう。
「今のチームは若い選手が多いので、自分が王監督に教えていただいたことをできるだけ伝えていきたい。」
あの飄々とした渚もいう。
「練習前に斉藤和さんから聞いていた。だから、きょうは勝ってウイニングボールを手渡したかったのに、できずに残念。今までで一番勝ちたい試合だった。」
そして海の向こうのJOH。
「当時、僕の調子が悪くて、第一声が“どうなってるんだね”で…。“もっとシンプルに考えなさい、君なら絶対打てる”と言っていただいた。やっぱり、僕のことは一番よく見てもらってますからね。直接電話をもらったのはキャンプ以来。」
「プロに入ってからずっと一緒でしたが、痛いのかゆいの、監督が言うのは聞いたことがない。よほど変な感じがしたのでは。」
親父の背中を見て育った子供達の、親父への想いが伝わってくる。
王さんには、ずっと福岡にいて若鷹たちを見守って欲しいと願う、その一方で、66歳という年齢にそぐわぬ激務にその身体を心配していた。奥さんも亡くなっているだけに心配である。
今年はWBCもあった。キャンプ前から、例年以上に東京と福岡を行ったり来たり。WBCの直前にも広告塔として渡米し、その一方でチーム改造にも着手し、例年以上にやることが多かったはずだ。
WBCで優勝し、帰ってきたのは、開幕の3日間。開幕後、風邪をひき点滴を打ちながら指揮を執ったという話しも聞く。
Hawksファンとしては、少しでも長く、できることなら体力と気力が続く限りは監督を続けて欲しい。だが、それも無理な相談だ。いつかは何らかの形で監督を退く日が来る...。
ここ数年、王さんは常に自分の引き際となるタイミングを探していた。
完璧主義者だけに、良い形で次代へ引き継ぎたいと考えているようだ。
だから、秋山幸二への禅譲に備え、秋山を2軍監督に。そして、今季は敢えてバティスタを解雇し、戦力ダウンさせてでも次代の選手を育てる選択をした。
若手を登用しながらも優勝で飾り、勇退。
そんなシナリオが王さんの頭には間違いなくあったはずだ。
王さんは、ソフトバンク孫オーナーの要請もあって、GMも球団副社長も兼任し、監督退任後もHawksに関わっていくのが既定路線となっている。
今のHawksというチームは、根本陸夫と王貞治、二人のコラボレーションが生み出した球史に残る傑作である。それだけに、王さんが、監督を退いたその後も、ドッシリとした重しのような、大親父のような存在としてHawksに関わってくれるなら、こんなに心強いことはない。
そう思う、その一方で、野球界全体のことを考えると、福岡だけ、一つの球団だけに王さんを縛っておいて良いのかという葛藤もある。
野球界の未来を考えれば、今の背広組の退職後のお飾り職ではなく、王さんのような人物にこそコミッショナー職に就いて貰いたいもの。
そんなことを、野球を愛する1ファンとして、この2、3年、常に考えていた。
だが、現実にこうして体調を崩されたことを聞くと、仰木さんのように、大好きな野球の犠牲にはなって欲しくはない、とも思う。
大したこと無ければこっそり手術なんて事もあるし、復帰の目処も語れよう。
その意味では、まだ、どうなるのかは分からないが、どちらにせよ、もうユニフォームを着る可能性は低いのだろう。
快復しても、きっと来季は秋山新監督の誕生だろう。
ならば、せめて、最後の胴上げを、日本一で。
最期のユニフォーム姿を、あの綺麗な胴上げで終わらせたい。
ナインとファンと博多っ子。全ての共通の想い。
森脇代行監督もいう。
「目標は、ただ一つ!」
ダイエーからソフトバンクへの球団売却も、王さんがいてくれたから、選手も、ファンも、何の心配もせずに済んだ。
息子達よ!
親父が元気なうちに、これ以上ない親孝行をしようではないか!
- 事務局に通報しました。
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