【ドーピングを考える】

※注
『Road to PK BAR(仮名)』
http://wearecrazy.exblog.jp/
とほぼ同じ内容を、コピーしてますので、
特別寄稿という形になります。


「いやんっ♪、ソープ!」
くだらないダジャレ、
で始めてはいけないくらい、深刻な話。
イアンソープにドーピングの嫌疑が、とのこと。


うーん。。。


これが本当だったら、
スポーツの真実というものが、価値というものが、
薄れていってしまうことになる。
子供たちの夢や希望、憧れと未来にも、陰を落とすだろう。


「鍛え抜く」という行為に、偉大さや素晴らしさがある。
それは身体という意味ばかりではなく、
精神面も含めた自己鍛錬。
出来ないことが出来るようになる過程、そこにある努力。
昨日の自分を越えていくこと。
「今日は昨日よりも上手になってやる!」
ある意味で言えばそれは、人生に繋がる修行でもある。


その過程を知るからこそ、
スポーツシーンに感動が生まれもするし、
人と人の「繋がり」が濃密にもなり、
鍛えられて「鎧」を身にまとっていくこととはある種正反対の、
中身の生身の「人間らしさ」・「人間くささ」さえ、
露出していくことになる。


名誉は金で買える。
もしそうであったら、
スポーツも「マネーゲーム」であるのだろうか。


ソープは間違いなく「偉大な選手」として、記憶にも記録にも残る人物だ。
これを書いている今現在(4月2日)、その真偽はまだ明らかでないし、
ここでソープを「罪人」のように書くことはしない。


ソープの真偽よりも、今考えるべきは、
スポーツとドーピングについて、である。


このブログでは、以前にも、
ドーピングについて触れて話したことがないワケじゃない。
オリンピックやフットボールの「商業化」の話題の中でも、
カールルイスの話題の中でも、話をしてきた。


「いたちごっこ」と言われる、
薬物あるいはドーピング技術開発と摘発技術開発。
ベンジョンソンが薬物違反となった時は凄まじい衝撃であった事実も、
今や世界記録保持者の選手が薬物違反となることも、
衝撃というよりは遥かに、
「やっぱり」とさえ思わされる認識のもとにあるほど。


ステロイド系による単純な筋肉増強、血液ドーピング、
果ては遺伝子操作に至るほどの「技術革新」、「知恵比べ」。
勿論、全てが選手の責任であることばかりではなく、
名誉を欲することはコーチも同じ。
知らぬ間にコーチに提供されていた「クスリ」だった選手もいただろう。


いたちごっこという意味の裏には、
首尾よく薬物の検出を免れた選手だっているかもしれない。
(存在した、とは敢えて書かないけれど)
体内にクスリが潜伏する期間を大会から上手に外せば、
スルリと網を抜けることが出来た選手もいたかもしれないし、
摘発技術が追いつかない薬物の使用もあったかもしれない。


大リーグなどでは、
薬物の使用による効果であることをカミングアウトする、
そういうこともあった。
サッカー界の天才児は、
とうとう薬物の「ワナ」に堕ちたままだったりもした。


10秒を切ることが人類の夢、
ベンジョンソンの記録なんてとても辿り着けない、
そう思っていても、今や記録は9秒5に迫る。
マラソンにしても、2時間3分(1キロ3分、100メートル18秒を切る)
時代が訪れるなんて、簡単には想像できなかったこと。


記録は名誉になる。
記録はカネをもたらす。
名誉をカネで精算する。
魂を「悪魔」に売る。


スポーツとは、なんぞ。


モラル。
信念。
メンタルタフネス。


アテネで、繰上げの金メダルとなった室伏。
正確には覚えていないが、彼の言葉には芯があり、
揺ぎ無い信念があったように思う。

表彰式も終わった後の会見。
一見、何だかバツの悪さを感じさせるような、
居心地の良くないような、そんな「繰上げ当選」会見にも思えたが、
彼のコメントは実に毅然と、そして真実を述べていたことは、
記憶にしっかり残っている。


なので今、ネットで調べてみようと思う。


あった、あった、ありました。
抜粋して、最後に並べるんで、読んで下さい。

印象に残ったのは、「真実」ということだったのを、思い出しました。

「どういう結果であっても、自分が一生懸命やったのは確かなこと。
 メダルの色には色々あるけど、本当に大切なのはそこへ向かって努力すること。
 本当の真実というか、クリーンな状況で競技が行われることが大事。
 金メダルよりも重要なものがある」
ということを言っています。


そしてまた、本当に素晴らしいなと思うのは、
「選手に大切なのは友好で、もちろん競技中は戦いであるけれど、
 友好を深めていく中で、ドーピングを許さない良い雰囲気が作れるんじゃないかと、
そう思う」と、その言葉こそ、気持ちこそ、
スポーツが信じるべき、道ではないかととても感銘を受けた。


僕が読んだ記事の中では、彼はそこまで触れていないが、
彼の言う「真実」とは、「太陽」そのものだと思う。


本当の真実、それは、
「お前は知っているんだろ」という自分自身の内面の問い掛け、
のことであろう。
言い方を変えれば、お天道様は見ていると、そういうこと。
そしてまた、ドーピングを防ぐということは、
選手自身、自分自身が太陽であるべきということ。
北風ではなく、太陽であれということ。


日本のスポーツ選手に違反を犯す選手が非常に少ないこと、
これは大切で重要なモラルであり、
僕ら日本人の「心」として誇って良い部分であると思う。
いわゆる「日本人的」な義や情や潔さが、
そこにはまだ宿っているということが、やはり大切なのだ。


心を鍛えるということ。
カールルイスの項で彼の言葉を使わせてもらったが、
彼はドーピングを「心の弱さ」であると言った。


「本当の真実」の意味と合わせ、
ソープが自らの口で否定した以上、
その言葉や心までが偽りの真実であったということにならぬよう、
心の弱さがもたらした嘘とならぬよう、
僕は心から願う。


北島康介は、
一般記録会では一般の子供たちと同じプールでクールダウンをするという。
それは純粋な憧れ、「すっげー!俺もキタジマみたくなるぞ!」、
という夢や希望を抱いてもらいたい、その一心だという。




確かに、会見での発言の通り、
ソープ自身、これまでも何度となく検査を受けてきた選手の1人であり、
潔白を主張するだけの根拠、自信、真実が偽りだとは、
言いたくも思いたくもないのが正直なところだ。


例え、もし今回ソープの嫌疑がクロであったとしても、
(それはとても残念で、かつ深刻に考えねばならぬ問題だけれど)
そういう事実や記録や記憶さえも超越する、
本当の真実がまた生まれていくことも、スポーツのチカラであると、
僕は信じたいと思う。


ルイスを手放しで礼賛するわけではないけど、
(彼はある意味ではスポーツと選手を商業化・商品化した分岐点だし)
もはや老兵となった彼が、それでも幅跳びで4連覇を遂げたり、
(走ることではなく、跳ぶことが、彼の本当のプライドだったりすること含め)
そこでルイスに敗れたパウエルはしかし、
(彼もまた跳ぶことがプライドであり、しかも彼は専門職で敗れた悔しさがあるワケで)
けれど世界記録を打ち立てる渾身のジャンプを世界選手権で見せ付けるなど、
そういう「克己」の歴史、積み重ねがスポーツの素敵なところだ。


僕はアメリカという国やそのスポーツが余り好きではないが、
走ることにかけては、あのルイスという「英雄」でさえ、
全米陸上で否応なく結果のまま、五輪の道を閉ざされる。
五輪4大会連続メダルがかかった話題性ではなく、
そういう実力主義の部分は、
例えば日本マラソンではいつも問題になる「内定」などと比べると、
アメリカにも非常な「潔さ」≒分かりやすさは感じもするけれど。


とまぁ、また少し話が脱線気味ではあるけれど。
ソープの件で思うこと、室伏の言葉に想うこと、

そしてドーピングについて考えること。


スポーツには、スポーツにしか成せない素晴らしいことがある。
夢や未来を壊さぬよう、
選手一人ひとり、スポーツを楽しむ人みんながそれぞれ、
それがプロであろうとアマチュアであろうと生涯スポーツであろうと、
小さくても心の「太陽」を誰もが持てるような、
そんな素晴らしいスポーツであって欲しい。
在り続けて欲しい、そう願うのである。


(室伏)
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/athletic/athens/column/kaiken/200408/at00002300.html

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