函館放浪記おまけ~本にのらない函館ガイド

  • 仲本
    2017年10月08日 22:32 visibility683

函館観光の定番撮影スポットの一つがここ、八幡坂。道幅の広い坂の上から、函館の港を望むことができます。ほぼ日が暮れてしまったので、あまりいい写真ではありませんね。撮影する際にはくれぐれも車に気を付けていただきたいと思います。普通の観光客ならば、ここでこういった写真を撮って終わりなのですが…、

 

その坂道に面して左側に目を移すとこんな建物が。「ロシア極東連邦総合大学函館校」。日本で唯一、ロシアの大学の分校です。学生たちは在学中にもれなく極東ロシアのウラジオストックに送り込まれるのだ!(本校に留学的な意味で)。4年制と2年制があり、4年制を卒業すればちゃんとロシア極東連邦総合大学から卒業証書と学士号が授与されるのだそうです。いやあ、さすがにこれは知りませんでした。

 

八幡坂で港と反対方向に振り返ればそこは函館西高校。北海道で初めて春の選抜高校野球大会に出場したのがこの学校です(野球ネタ)。前身は明治38年に創立した函館高等女学校でした。共学化して函館西高校になったのが昭和25年4月、選抜大会に出場したのは昭和27年ですから、男子生徒1期生が頑張ったわけです。おそらくは旧制・函館中学の流れをくむ函館中部への対抗心も強かったのでしょう。全国大会の初戦は静岡商と対戦し0-1で惜敗。しかしこれは相手が悪かった。静岡商はその後平安を3-0、八尾を2-0、決勝戦の鳴門線も2-0と下して優勝しました。エース・田所投手は全試合完封の記録を打ち立てています。この年は春夏連続で全国大会に出場し、夏は2勝を挙げて堂々ベスト8という成績を残しました。

 

五稜郭方面へ向かう方は時間があればこちらもどうぞ。遺愛女子中学・高校です。明治7年、アメリカ人宣教師夫妻が始めた小さな学校は、明治15年、正式に女学校として認可されました。関東以北の女学校ではここが最も早いものでした。「遺愛」という独特の校名は、「memorial school」を意訳したもの。奥に伸びる道の先、玄関だけがわずかに見える旧本館は重要文化財に指定されています。映画やCMのロケ地としても何度も使われている美しい建物だそうです。手前にある小屋がおそらく守衛室でしょう。断ればもっと近くまで入れてくれるかもしれませんが、定かではありません。そもそもこの1枚は日曜日の早朝6時に撮りにいったもので、誰もいないだろうなあと思いつつ、さすがに入るのは自重。それにしても、細長い敷地の学校です。

 

五稜郭公園そばの函館美術館前に、函館商業の旧校門がモニュメントとして残されています。校章は例のアレですね。明治19年創立は函館中学より古いのです。開港地・函館においては商業人の育成が急務だったのでしょう。大正11年に五稜郭跡の隣接地に移転してきました。翌大正12年の夏、野球部は全国大会出場を果たし、1勝を挙げています。古い学校だけあって学校HPには校歌のほかにさまざまな応援歌が掲載されていますが、なにしろ時代がかったものばかりなので、現存はしていないのではないでしょうか。今回の遠征で試合観戦ができれば確認できたのですが、初戦で姿を消していました。ちなみに写真が夜になっているのは朝に五稜郭から球場へ向かうタクシーの中でちらりと目に入って、夜もう一度確認しに行ったからです。なんなのこの人。

 

再び港近くへ戻ってみましょう。小舟の上にすっくと立つ青年は、若き日の新島襄です。禁を犯して密航するため、小舟を出して外国船にもぐりこんだのがここ函館の港でした。刻苦精励十年余、日本に戻った彼は京都で新たに学校を開きます。今につながる同志社の創立です。東に福澤の慶応あれば西に新島の同志社あり、強烈な個性を持つ校祖として学校関係者のみならず仰ぎ見られるのはこの二人くらいではないでしょうか。幕末から明治にかけて激動のさなかにあった港町・函館は、学校マニアにとっても見逃せない場所なのでした。

 

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