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☆一度だけの甲子園? 取手市近隣高校親善野球大会観戦記~江戸川学園取手~

 

 

1980年(昭和55年)の夏、茨城県高校野球界に激震が走った。
茨城大会の準決勝に進出したのは、水戸商(1905年創部)、下妻一(1902年創部)、太田一(1900年創部)の伝統校3校と創立・創部3年目の江戸川学園取手であった。茨城の高校野球ファンは甲子園から20年遠ざかっていた水戸商の甲子園復活に期待をしていた。
しかし、水戸商は好投手サブマリン斎藤学(青学→中日→ダイエー)を擁する下妻一に 0 - 2 の完封負け、下妻一はノーシードからの決勝進出であった。
江戸川学園取手も、双子の好投手を擁する太田一に 2 - 0 の完封で決勝に進出した。

 

迎えた決勝戦、下妻一の斎藤学が崩れ、9 - 0 と予想外の大差で江戸川学園取手が甲子園初出場を決めた。

江戸川学園取手の初優勝に地元は祝福ムードかと思いきや、そうではなかった。
江戸川学園取手は開校と同時に、東京、静岡、千葉、愛知などから優秀な選手を100人スカウトして部員120人の大所帯を築き、そこから選び抜かれたベンチ入りメンバー17人のうち16人が県外出身者という構成で甲子園出場を果たしたからであろう。
当時のいはらき新聞『白球の詩』のコーナーには、「外人部隊で構成される江戸川学園はその在り方をめぐって本県高校野球界に一石を投じている」という記述まで掲載された。当時はまだメンバーを県外出身者で固めることが珍しく、県外出身者が茨城の代表として甲子園に出場することに高校野球関係者のみならずファンからも反発や疑問が噴出した。

 

茨城県取手市にある、江戸川学園取手中・高等学校は創立当初、千葉や東京からも近いという立地条件もあり入学してくる生徒の8割が県外で、偏差値も高くはなかった。しかし、当時の校長は「東大・甲子園・花園をめざせ!」を合言葉に、「心の教育による日本一の規律ある進学校」の実現に向かって走り始める。
創立3年目で甲子園出場を果たし、その後は進学へ力を入れ、7期生に初の東大合格者を出してからは飛躍的に学力を伸ばし続け、現在は偏差値71~74の県内屈指の進学校へと変貌を遂げ、県内外から進学校として認知されている。新興私立高校の成功モデルのひとつといっていいだろう。

 

学校の方針転換により、野球部は県内でも上位進出の機会は少なくなり、強豪校相手にあと一歩という試合をすれば、地元紙には「江戸取、大魚を逃す」というような記事が掲載される。
野球部の紹介も、「大学でも野球を続けてほしい、東京大学を目標に六大学で活躍できる選手育成に励んでおります。」といった内容である。

 

 

その江戸川学園取手の試合を観たくなり、取手市近隣高校親善野球大会が開催されている藤代スポーツセンター野球場に向け、愛車のレクサスCT200hを走らせた。

白地に紫を基調としたユニフォーム、甲子園に出場した時もこんなユニフォームだっただろうか? はっきり記憶が残っていない。

私の中でも、江戸取は外人部隊で甲子園のイメージは薄れ、有名進学校のイメージが強くなっている。

 

時代の流れを感じながら、江戸川学園取手の試合を観戦した令和最初の秋の日であった。

 

 

 

 

 以上です。

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