リチャードベイヤ-(デストロイヤー)逝く!
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篠山鳳明
2019年03月10日 09:59 visibility602
3月に入りましてここ常陸の国水府地区も春の予感が一杯です。
水戸市の偕楽園の「梅まつり」ももう終わりです。
第91回選抜大会前の練習試合が解禁され各チームとも最終調整の励んでおります。
昨日は石岡一高が福島県の田村高校との練習試合で第一試合5対4、第二試合14対4で連勝。
川井政平監督も手ごたえを感じていると思います。
履正社も桜宮、春日部共栄も作新学院と練習試合を行い勝利しております。
さて今週訃報が入りました。
覆面プロレスラーの第一人者のザ・デストロイヤー(本名リチャード・ベイカー)が88歳で天国へ旅立ちました。
覆面プロレスラーも多数いるが、やはりデストロイヤーがNO1でその次にミル・マスカラスが私の中での順位付けである。
1930年7月11日米ニューヨーク州バッファロー出身でシラキュース大ではアメフト、レスリングで活躍。
1954年米国でプロレスラーデビュー。1962年にザ・デストロイヤーに改名して覆面を着用し始めた。
1963年に初来日、東京体育館での力道山VSキラーコワルスキー戦で突然リング上の登場して、コワルスキーに握手を求めて、コワルスキーから平手打ちを見舞ったのだ。
当時コワルスキーと言えば、ユーコンエリックの耳をニードロップで削ぎ落とした男で勢いのあるレスラー
新米のデストロイヤーのこのふるまいに対して当然の事である。
デストロイヤーと言えば「足4の字固め」(フィギュア・フォー・レッグロック)である。
外人離れした短足で足の筋肉が発達しいたデストロイヤーにはまさに「はまった」決まり技だったのだ。
この「4の字固め」はフランスの哲学者ロラン・バトルの表現を借りれば、「公開された<苦しみ>と<屈辱>の古代的な神話、すなわち十字架と処刑台を再現している」構図そのものだということを語っている。
当時の小さい子供もこのデストロイヤーの4の字固めを従兄兄弟まねてプロレスごっこをしたものだ。
もちろん私も、かけたし、かけられた。
裏返ると、逆にかけたほうが痛くなる不思議な技である。
写真は1963年5月24日東京体育館で力道山へ足4の字固めを決めた時に、スポニチのカメラマンの宮崎仁一郎さんが天井裏に忍び込み始めて上から撮った極めて貴重な写真である。
デストロイヤーは日本に来るのを当時は嫌がっていた「真珠湾を奇襲攻撃する卑怯な日本などには行きたくない」ということだったが、「1回でいいから力道山と戦ってくれ」という当時のプロモーターの熱意に負け来日した。その後日本人の心のあたたかさ触れ、ついには麻布十番へ住みついた。
晩年は米国に帰国しても、毎年麻布十番の祭りには来ていたということであるがここ数年は体調を崩していた。
日本への愛着も人一倍強かったデストロイヤーなの万人からも愛された所以であろう。
カール・ゴッチ
キラー・コワルスキー
キラー・カールスキー
ジン・キニスキー
フレッド・ブラッシー
フイツクホン・エリック
ブルーノ・サンマルチノ
スカル・マフィー
ザ・コンビクト
シャープ兄弟
ビル・ロビンソン
など・など
などなど色々個性あふれる選手が多々いたし、面白かった。
デストロイヤーの訃報でプロレスファンの私が感じるのはますます昭和が遠くなってきたという思いである。
おわり
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